仕掛けリュートと、次への備え
俺たちは泊まっている安宿には戻らず、まずは腹ごしらえをしようと、馴染みになりつつあの「鴎の休み処」の戸を引いた。
魚介出汁のいい匂いが立ち込める店内で、ちょうど朝食の準備を終えたらしい老婆が、俺たちに気づいて顔を上げる。
「おや、朝っぱらから精が出るねぇ。その様子だと、どこぞでよっぽどいい朝日でも拝んできたのかい?」
全てを見透かしたような鋭い目でニヤリと笑う老婆に、俺は肩をすくめて見せた。
「まあね。早起きは三文の得って言うからな」
老婆は「ふん」と鼻を鳴らしてそれ以上は追及せず、俺たちをいつもの席へと促す。
すぐに湯気の立つ温かいスープと、ふかふかの焼きたてパンが運ばれてきた。
夜通しの冒険で冷えた体に、その温かさがじんわりと染み渡っていく。
幻想的な一夜が明け、こうして温かいものを口にすると、ようやく現実に戻ってきたという実感が湧いてきた。
食堂を出て、宿とは違う方向へ歩き出す俺に、クリスが不思議そうに尋ねる。
「師匠、宿はこちらでは?」
「ああ。その前に、ロウェナとの約束を果たしにな」
俺がそう言うと、ロウェナは心得たとばかりにクリスに向き直り、自分の願いを改めて伝えた。
「くりす。わたし、うたう どうぐ、ほしいの」
その言葉と、彼女の真剣な眼差しに、クリスは全てを察したようだった。
「素晴らしい! それはとても良い考えです、ロウェナ! リューベックは大きな街です。きっと素敵な楽器が見つかりますよ!」
憂鬱な気分を振り払うように、クリスは快活に賛同した。
こうして俺たちの新たな目的が決まり、道行く商人に聞き込みをしながら、多種多様な工房が軒を連ねるという職人街を目指して歩き始めた。
聞き込みの末、俺たちは職人街の路地裏にひっそりと佇む、古びた楽器店にたどり着いた。
ニスと古い木の香りが混じり合った空気が漂う店内で、店主の老人がレンズの分厚い眼鏡の奥から、穏やかな目で俺たちを見つめている。
店内には大小様々な弦楽器、美しい装飾の施された笛、異国の打楽器が所狭しと並べられていた。
ロウェナは目を輝かせ、一つ一つの楽器に、まるで挨拶でもするかのようにそっと指で触れていく。
「子供用の、手頃な弦楽器を探しているんだが」
俺が老人に尋ねると、老人はゆっくりと頷き、店の奥から子供の体に合わせた小ぶりなリュートを数本、カウンターに並べてくれた。
ロウェナは、その中の一本に吸い寄せられるように近づいた。
飾り気はないが、長年使い込まれて美しい飴色の艶を持つ、小さなリュート。
彼女がおずおずと、震える指で弦を弾くと、ポロン、と温かく澄んだ音が、静かな店内に優しく響き渡った。
俺はそのリュートを手に取り、品定めするように眺める。
その時、ごくわずかな違和感に気づいた。
ネック、つまり棹の部分の太さが、先端と付け根で微妙に均一ではない。
指で裏側をなぞると、ほとんど見えないほどの細い継ぎ目が、指先に引っかかった。
(……なるほどな。面白い細工だ)
内心で感心するが、表情には一切出さない。
何も言わないということは、店主もこの仕掛けには気づいていない様子だ。
「少し埃を被ってるし、弦も古いな。少し負けてくれないか、爺さん」
適当な理由をつけて値切り、俺たちはそのリュートを安価で手に入れた。
店を出た後、俺は二人を人通りの少ない路地裏に連れて行く。
「ロウェナ、ちょっと貸してみろ」
リュートを受け取ると、俺はネックの付け根あたりにある、木目に擬態したほとんど見えないほどの小さなボタンを爪先で押し込んだ。
カチリ、と小さな音がして、ネックがわずかにせり出し、中から細身の短刀の柄が姿を現す。
それを引き抜くと、ネックの内部にぴったりと収まるように作られた、鞘のない鋭い刃が朝の光を鈍く反射した。
「これは……! 吟遊詩人を装った密偵などが使うという仕込み武器では!?」
クリスが驚愕の声を上げる。
「大袈裟だな。吟遊詩人を装った密偵なんて、芝居の中でしか聞かないな、ただの護身用の玩具みたいなものさ」
俺は肩をすくめてそう言うと、短刀をネックの中に戻した。
ロウェナは短刀を怖がるより、その精巧な仕掛けそのものに興味津々な様子で目を輝かせている。
「まあ、いざという時のお守りだ。ロウェナに何かあっても、これがあれば少しは時間を稼げるだろう」
俺はそう言って、リュートを改めてロウェナに手渡した。
その後、俺たちは自分たちが泊まっている安宿に戻る。
部屋に入るなり、俺はベッドにどさりと腰を下ろし、宣言した。
「さて、肉も魚も食ったし道中長かった、リュートを買って少し懐も寂しくなった。明日からこの街で仕事を探す。冒険者ギルドで何か割のいい依頼がないか、見てみることにしよう」
続けて、大きく一つあくびをする。
「だが、今日はここまでだ。昨夜からまともに寝てないんだ、さすがに疲れた。お前たちも早めに休め」
俺は外套も脱がずに、そのままベッドに横になった。
隣で、ロウェナが買ってもらったばかりの仕掛けリュートを、ぽろん、と鳴らす。
その拙い音色を聞きながら、俺はゆっくりと意識を手放した。




