月影の人魚と、深夜の訪問者
夜が更け、仲間たちが寝静まってから数時間が経過した。
燃え盛っていた焚き火も今は穏やかな熾火となり、時折パチリと小さな音を立てては、周囲の闇をわずかに揺らすだけ。
洞窟を満たすのは、規則正しい寝息と、天井の穴を抜ける風が奏でる、子守唄のような遠い歌声。
俺は一人、眠らずに火の番をしていた。
時折、乾いた薪をそっと熾火にくべながら、天井に広がる偽りの星空を見上げる。
ロウェナとローラの澄んだ歌声が、まだ耳の奥で静かに響いていた。
あの楽しそうな顔、無邪気な笑い声。
この旅がもたらしてくれた温かいものを思うと、自然と口元が緩む。
(いい夜だ……)
そんな穏やかな感慨に浸っていた、その時だった。
ふと、洞窟内の空気が微かに震えたのを、肌で感じ取った。
それは殺気や敵意といった、馴染み深い類のものではない。
もっとずっと臆病で、ためらいがちな、純粋な“気配”だった。
衛兵時代に培った感覚が、思考よりも先に体を動かす。
俺は音もなく立ち上がり、腰の剣の柄に右手を、外套の内側に隠した投げナイフに左手を、それぞれ滑らせた。
研ぎ澄まされた意識が、気配の源を探る。
それは、洞窟の奥。
あの底知れない深淵を湛える、「深い水たまり」の方からだった。
チャプン……。
静寂を破るにはあまりに小さな水音が、確かに俺の耳に届いた。
足音を殺し、壁の陰に身を潜めながら、慎重に水たまりへと近づく。
月明かりが水面を照らし、銀色の道を作っていた。
その道の先で、水面が静かに波紋を広げ、そこから一体の存在がおずおずと姿を現した。
銀色に輝く長い髪。
人間とは明らかに異なる、月の光をそのまま固めたような透き通る肌。
皆が寝静まっていることを確かめるように、慎重に辺りを見回している。
その姿を認めた瞬間、俺は息を呑んだ。
伝説の存在――人魚。
彼女は、焚き火のそばにいるはずの俺が、すぐ近くの暗がりに立っていることに気づいた。
ビクッと、そのしなやかな体が大きく震える。
大きな瞳が驚きに見開かれ、弾かれたように身を翻して水中に隠れようとした。
「待ってくれ」
静かに、しかし制止の響きを込めて声をかける。
「危害は加えない。約束する」
人魚は水面から顔だけを出し、大きな瞳で警戒しながら俺を見つめている。
その声は、驚きと戸惑いに微かに震えていた。
「……あなたは、起きていたのですか? てっきり、皆、眠っているのだと……」
「ああ、火の番をしていたんだ。すまない、驚かせるつもりはなかった」
俺はゆっくりと武器から手を放し、彼女に見えるように両の手のひらを広げた。
敵意がないことを示すための、万国共通の仕草。
「なぜ、こんな時間に?」
俺が尋ねると、人魚は少し躊躇った後、小さな声で答えた。
「少し前に……歌が聞こえました。とても温かくて……美しい歌が」
彼女の視線が、仲間たちが眠る焚き火の方へと向けられる。
「あのような歌をうたうのは、どのような人たちなのか……どうしても知りたくなってしまって。それで、皆さんが寝静まるのをずっと待って、ほんの少しだけ、様子を見に来たのです」
彼女の臆病さと、その奥にある純粋な好奇心。
それを知り、俺の中にあった最後の警戒心も綺麗に消え去った。
ロウェナとローラの歌声が、この奇跡的な出会いを引き寄せたのだ。
「そうか。心配しなくていい。あれは俺の仲間の子たちが歌っていたんだ」
できるだけ穏やかな声で教えると、彼女の瞳から少しだけ警戒の色が薄らいだ気がした。
二人の話し声に、最初に気づいたのはクリスだった。
彼はうっすらと目を開けると、水たまりのほとりに立つ人魚の姿を認め、息を呑んで完全に覚醒した。
書物でしか読んだことのない伝説の存在を目の当たりにし、その神々しさに畏敬の念で打ち震えている。
その物音で、ロウェナ、ローラ、そしてベックも次々と目を覚ます。
突然増えた人の気配に、人魚は再び驚いて身を隠そうとする。
「大丈夫だ。悪い人間じゃない。君の聞きたがっていた歌をうたった子たちだ」
俺の言葉に、人魚の動きが止まる。
彼女は、眠たげな目をこすりながらも、純粋な好奇心で自分を見つめるロウェナとローラの姿を認め、少しだけ安心したように警戒を和らげた。
「……本当に、いたのか……」
海の男ベックが、呆然と呟く。
彼の長年の常識が、今この瞬間、目の前で覆されている。
その夜、俺たちは種族を超え、再び熾火となった焚き火を囲んで語り明かした。
人魚は、この洞窟が古くから「月の揺りかご」と呼ばれていることや、昔の海の様子を語り、俺たちもまた、陸の世界の様々な話を聞かせてくれた。
それは、臆病な訪問者がもたらしてくれた、まるで御伽噺の中にいるような、不思議で穏やかな交流の時間となった。
やがて、洞窟の入り口から朝の光が差し込み始め、東の空が白んでくる。
潮が引き始める気配を感じ取った人魚は、名残惜しそうに告げた。
「もう行かなければなりません」
そして、俺たち一人一人の顔を順に見つめると、真剣な瞳で頼んできた。
「一つ、お願いがあります。私のことを、決して他の誰にも話さないでください。人に知られてしまえば、もうこの『揺りかご』にはいられなくなるのです」
その切実な響きに、俺たちは全員、固く頷き、この夜の出来事を胸に秘めることを約束した。
別れ際に、人魚はロウェナとローラに、内側が月の光を溶かし込んだように虹色に輝く、美しい巻貝を一つずつ手渡した。
「あなたたちの素敵な歌へのお礼です。そして、私たちが出会ったことの、秘密のしるしに」
「「ありがとう」」
ロウェナとローラが小さな声で伝えると、人魚は穏やかに微笑み、静かに水の中へと姿を消していく。
その姿が見えなくなるまで、俺たちはただ黙って、揺れる水面を見送るだけだった。
やがて、洞窟に朝日が満ち、新しい一日が始まる。
ロウェナとローラの手の中に残された巻貝のひんやりとした感触だけが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを、確かに告げていた。




