歌声の洞窟と、月明かりのデュエット
翌朝、俺たちは「歌う洞窟」への足がかりを求め、再び港へと足を向けた。
活気ある市場とは少し離れた桟橋エリアは、潮と魚の匂いがより一層濃密に漂い、網の手入れをする漁師たちの逞しい声が飛び交う、生活の息吹に満ちた場所だった。
そこで俺たちは、魚の入った籠を一生懸命に運ぶローラと、思いがけず再会を果たした。
「ローラ!」
ロウェナが嬉しそうな声を上げ、小さな体で人混みをすり抜けて駆け寄る。
ローラもすぐに気づき、籠を置くと満面の笑みでその手を取った。
あっという間に打ち解けた二人の少女の姿に、自然と口元が緩む。
挨拶もそこそこに、俺は本題を切り出した。
「すまないが、一つ頼みがあるんだ。『歌う洞窟』へ行きたいのだが、船を出してくれるような心当たりはないだろうか」
「専門家の案内があれば、これほど心強いことはありません」
クリスも丁寧な口調で言葉を続ける。
ローラは少し考えるそぶりを見せた後、ぱっと顔を輝かせた。
「それなら、あたしのお父ちゃんに頼んでみるのが一番だよ! この辺りの海のクセなら、誰よりも知ってるんだから!」
彼女はそう言うと、俺たちを手招きし、桟橋の奥で一際大きな船の手入れをしている男の元へと案内してくれた。
ローラの父親、ベックと名乗った男は、潮と陽光で刻まれた深い皺を持つ、寡黙な海の男だった。
日に焼けた太い腕で網を繕いながら、俺たちを値踏みするような鋭い視線で一瞥する。
「……よそ者を乗せる船はねえ。ましてや、物見遊山の連中を乗せて、漁の時間を潰すほど暇じゃねえんだ」
その声は、長年浴び続けた潮風のように、乾いていて無骨だった。
取り付く島もないとは、まさにこのことだろう。
(さて、どうしたものか……)
俺が次の言葉を探していると、隣でローラが父親の腕に必死にしがみついた。
「お願い、お父ちゃん! この人たち、昨日あたしが困ってるところを助けてくれたんだよ! ロウェナちゃんともお友達になったの! ロウェナちゃんに、リューベックで一番素敵な場所を見せてあげたいの!」
潤んだ瞳で見上げる娘の姿に、海の男の険しい表情が、ほんのわずかに揺らいだ。
隣ではロウェナも、心配そうにベックの顔をじっと見上げ、こくりと小さく頷いている。
ベックは天を仰いで大きなため息を一つ吐くと、そのごわごわした手でローラの頭をくしゃりと撫でた。
「……お前には敵わんなぁ」
その声には、呆れと、それを遥かに上回る深い愛情が滲んでいた。
彼は改めて俺に向き直ると、今度は真剣な目で告げる。
「いいか、よく聞け。あそこの潮の流れは特別だ。今日の昼過ぎの干潮で洞窟に入ったら、満ち潮で入り口は完全に塞がる。次に出られるのは、明日の朝、再び潮が引くのを待つしかねえ。洞窟の中で一晩明かすことになるが、それでもいいか?」
一晩、洞窟で。
予想外の条件に、俺は一瞬逡巡する。
野宿の危険性は承知しているつもりだが、それが閉鎖された洞窟の中となれば話は別だ。
だが、俺の視線の先で、ロウェナとクリスが、期待に満ちた輝く目で俺の返事を待っていた。
その顔を見てしまえば、もう答えは決まっているようなものだった。
「構いません。どうか、よろしくお願いします」
俺は、ベックの深く刻まれた皺の奥にある、信頼に足る光を見つめ、深々と頭を下げた。
ベックの操る小舟『海鴎号』は、港の喧騒を滑るように離れ、穏やかな海を西の岬へと進んでいく。
カモメの鳴き声と、規則正しい櫂の音だけが聞こえる。
ロウェナとローラは船べりに並んで座り、水面を撫でる潮風に髪をなびかせながら、楽しそうに何かを囁き合っていた。
「お前さんたちが聞きたがってる『歌声』の正体は、岩の隙間を抜ける風の音だ」
不意に、ベックが口を開いた。
「だが、あの洞窟はただの穴じゃねえ。奥に、まるで大聖堂みてえにだだっ広い空洞が広がってる。大昔の落盤で偶然できた場所だと、じいさんから聞いた」
「大聖堂、ですか……」
クリスの目が知的な好奇心に輝く。
「昔ね、海で恋人を亡くした人魚が、帰らない人を待ちながら毎日その洞窟で歌っていたんだって。その悲しい歌声が、今でも風に乗って聞こえるんだって」
ローラが、ロウェナに囁くように伝説を語る。
ベックはその話を耳にして、「人魚なんざいねえよ」と笑い飛ばした。
「だがな、夜になって空洞の天井にある岩塩の結晶が月明かりで光ると、まるで星空の下にいるみてえな気分になる。それを見ちまったら、人魚の一つや二つ、信じちまいたくなる気持ちも分かるがな」
少しだけロマンを滲ませた海の男の言葉に、俺たちはこれから訪れる場所への期待をさらに膨らませた。
やがて、船は巨大な岩が連なる岬へとたどり着く。
岩壁にぽっかりと口を開けた洞窟の入り口から、ゴォォ……ウウゥ……という、物悲しくも不思議な音が響いてくる。
これが、あの『歌声』なのか。
ベックの巧みな櫂さばきで、船は吸い込まれるように洞窟の中へと進んでいく。
狭く薄暗い水路を抜けると、視界が一気に開けた。
「……わぁ……!」
誰からともなく、感嘆の声が漏れる。
そこは、ベックの言った通り、巨大なドーム状の大空洞だった。
天井には大小様々な穴が空いており、そこから差し込む光の筋が、まるで天からの梯子のように洞窟内を幻想的に照らし出している。
空洞の一角には船を着けられるほどの広さの砂浜があり、俺たちはそこに上陸した。
俺とベックが野営の準備を始める間、クリスと二人の少女は、子供のように目を輝かせながら、広大な空洞の探検へと駆け出していく。
空洞の最も奥まった場所に、静寂に満ちた大きな水たまりがあった。
水は驚くほど透明で、光が届かないその先は、どこまでも深い藍色に染まっている。
まるで、海の底や、あるいはどこか別の世界に繋がっているかのような、神秘的な雰囲気を漂わせる深淵。
ロウェナがそっと水面に顔を近づける。
コォォ……と洞窟に響く風の音とは違う、静かで澄んだ水音が、水たまりの奥深くから聞こえてくるような気がした。
彼女は、その不思議な響きに心を奪われ、しばしその場から動けなくなっていた。
やがて夜になり、満ち潮で来た道は完全に水没し、洞窟は静かな閉鎖空間となった。
俺たちは焚き火を囲み、ベックが船から持ってきた干し魚とパンで素朴な夕食をとる。
パチパチと爆ぜる炎の音と、香ばしい魚の匂いが、不思議な安らぎを与えてくれた。
そして、その瞬間は訪れた。
天井の穴から満月の光が差し込み、ベックの言った通り、壁や天井の岩塩の結晶が、チラチラと無数に輝き始めたのだ。
それはまるで、天然のプラネタリウム。
手が届きそうなほど近くに、満天の星が広がっている。
その幻想的な光景の中、ローラがふと、リューベックに古くから伝わる船乗りの子守唄を、小さな声で口ずさみ始めた。
素朴で優しいメロディが、焚き火の爆ぜる音に静かに混じり合う。
ロウェナが、その歌声にじっと耳を澄ましていた。
そして、湿地でレイから教わった、言葉のないあの旋律を思い出す。
彼女は、ローラの歌声に寄り添うように、澄んだ声でハミングを重ね始めた。
最初は驚いていたローラも、すぐに楽しそうな笑顔を浮かべる。
二人の少女の歌声は自然に重なり合い、美しいデュエットとなって洞窟の高い天井へと響き渡った。
風が奏でる物悲しい『歌』とは違う、生命力に満ちた温かいハーモニーが、焚き火の光と月明かりに溶け合っていく。
俺とクリス、そしてベックも、言葉もなくその光景に見入っていた。
(……歌えるようになったんだな、ロウェナ)
ただ、その事実が、胸の奥を温かく満たしていく。
ベックも、楽しそうに歌う娘の姿に、父親としての深い喜びを感じているようだった。
やがて歌が終わり、洞窟に満ち足りた静寂が戻る。
焚き火の暖かさに包まれ、ロウェナはローラの肩にこてんと頭を預け、安心しきった様子で眠りについた。
俺は、この穏やかでかけがえのない時間を胸に刻みながら、静かに更けていく夜を、ただ見守っていた。
天井では、偽りの星々が、本物以上に優しく輝いている。




