波止場の市場と、歌う洞窟の噂
翌朝、三人は「鴎の休み処」の素朴だが温かい朝食で腹を満たし、リューベックの心臓部である波止場の巨大市場へと繰り出した。
日の出と共に開かれるという市場は、俺たちが足を踏み入れた頃には既に喧騒の頂点を迎えており、エネルギッシュな活気が渦を巻いていた。
最初に訪れたのは、港の活気を象徴する魚市場だった。
「へい、そこの銀鱗のヴォルフィッシュは今朝揚がったばかりだ!」
「その樽の赤爪蟹、まとめてなら安くしとくぜ!」
威勢のいい競り人の独特な節回しの掛け声と、買い付け人たちの怒号にも似た声が飛び交う。
濡れた石畳の上では、氷が敷き詰められた巨大な木箱から、まだ息のある銀色の魚たちが時折ぴちぴちと跳ね、濃厚な海水の匂いがあたりを満たしていた。
「クリス、見てみろ。あの魚は目が澄んでいる。鮮が良い証拠だ」
「はい! それに、書物によれば鰓が鮮やかな赤色をしているのも特徴だと……まさに、書いてあった通りです!」
クリスは興奮したように、手帳に熱心に何かを書き込んでいる。
魚市場の喧騒を抜けると、今度は全く違う香りが鼻腔をくすぐる交易所エリアに出た。
見たこともない鮮やかな黄色の果物や、山のように積まれた色とりどりの香辛料、そして美しい文様の織物などが所狭しと並び、異国情緒あふれる雰囲気を醸し出している。
「師匠、これは! 書物で読んだ幻の『太陽の胡椒』ではありませんか!? こんなものが手に入るとは……!」
クリスが目を輝かせてスパイスの山に見入る横で、ロウェナは別の露店にすっかり心を奪われていた。
陽光を浴びてキラキラと輝く、色とりどりのガラス細工や、小さな貝殻を繋ぎ合わせて作られた可愛らしい腕輪。
「きらきら……おほしさま、みたい……」
その一つ一つを、飽きることなくじっと見つめているうちに、彼女は無意識のうちに足を止め、俺たちから少しずつ遅れてしまっていた。
俺とクリスが、船大工たちが巨大な木材を削る音とタールの匂いが満ちる工房エリアに差し掛かり、その巨大な建造中の船の骨格に見入っていた時のことだ。
ふと、ロウェナの気配がないことに気づき、俺は振り返った。
「ロウェナ?」
クリスもはっとして周囲を見回すが、彼女の小さな姿は既に雑踏の中に紛れて見えない。
その頃、ロウェナはガラス細工の露店から顔を上げた時には、俺たちの姿がどこにもないことに気づき、一瞬にして血の気が引いた。
ついさっきまで楽しかった市場の喧騒が、急に不安を掻き立てる騒音に変わる。
見上げる大人たちの足が、まるで不規則に動く森の木のようだ。
「……えど? くりす?」
涙が目に浮かび、慌てて振り返った、その時だった。
「きゃっ!」「うわっ!」
角から飛び出してきた、同い年くらいの少女と正面からぶつかってしまった。
「ちょっと、どこ見て歩いてるのよ!」
日に焼けた肌にそばかすが可愛らしい、気の強そうな少女は、尻餅をついたロウェナを見下ろして言った。
だが、ロウェナの目に大粒の涙が浮かんでいるのに気づくと、途端にバツが悪そうな顔になる。
「あ……ご、ごめんなさい。もしかして、迷子?」
少女が手を差し伸べてくれた、その時だった。「ロウェナ!」というクリスの声が響く。
俺とクリスが、血相を変えて人混みをかき分けてきたのだ。
ぶつかった少女――ローラと名乗った――は生粋の港育ちで、あっという間にロウェナと打ち解けると
「あんたたち、旅人だろ? 市場なら私に任せな! もっと面白い場所に案内してあげる!」
と、得意げに胸を張った。
彼女が連れて行ってくれたのは、市場の隅にある、古い船乗りたちが集う溜まり場だった。
そこでローラは、まるでとっておきの秘密を打ち明けるかのように、声を潜めてこの土地に伝わる噂話を披露した。
「この街の西にある岬にね、『歌う洞窟』があるんだよ。潮が引いた時にだけ入れるんだけど、洞窟の中に風が吹き抜けると、すっごく綺麗な歌みたいな音が聞こえるんだ! 人魚の歌声だって言う人もいるんだよ!」
その言葉に、ロウェナの瞳が、これまでで一番大きく輝いた。
「うたう、どうくつ? レイみたい?」
湿地で出会った吟遊詩人の、優しい歌声を思い出したのだろう。
彼女は俺の外套を掴み、期待に満ちた眼差しを向けてきた。
「いってみたい!」
その純粋な好奇心は、クリスの冒険心にも火をつけたようだった。
「自然現象が音楽を奏でる……実に興味深いですね!」
二人のそんな様子を見て、俺はやれやれと肩をすくめる。
その表情には、呆れと、隠しきれない優しさが滲んでいた。
「仕方ないな。その洞窟とやらに行くにはどうすればいいのか、ローラ嬢に詳しく話を聞かせてもらおうか」
俺の言葉に、ロウェナとクリスは、顔を見合わせて満面の笑みで歓声を上げた。




