友との別れと、約束の水平線
湿地の夜が明け、朝の光が立ち上る霧を金色に染めていた。
一夜限りの野営地で、三人は吟遊詩人レイとの別れの挨拶を交わしていた。
彼の荷物は驚くほど少なく、その生き様そのものを表しているかのようだった。
「クリス君、君の剣はまだ硬いが、その心は誰よりも優しい。きっと、君だけの音色を奏る剣士になれるさ」
「ロウェナちゃん、君のその澄んだ瞳と耳は、世界中のどんな宝石よりも、どんな歌よりも美しい宝物だ。大切にするんだよ」
レイは一人一人に言葉をかけると、最後に俺に向き直った。
「エドさん。あんたの旅は、まだ始まったばかりのようだ。だが、もう立派な歌の題材だ。またどこかで会ったら、その時はぜひ、物語の続きを聞かせておくれ」
彼はリュートを背負い直すと、悪戯っぽく笑う。
「なに、きっとすぐに会えるさ。良い歌の匂いがする方へ、風は吹くものだからね」
レイは三人に軽く手を振ると、来た時と同じように、ふらりと軽やかな足取りで湿地の奥へと去っていく。
その姿が朝靄の中に完全に消えるまで、三人は黙って見送っていた。
彼の歌声が消えた後には、不思議な静けさと、温かい余韻だけが残されていた。
再び始まった三人の旅。
しかし、その足取りは昨日までよりも確かで、どこか誇らしげに見えた。
自分たちの何気ない毎日が、誰かの心に残る一つの「物語」になり得るのだと、風来坊の吟遊詩人が教えてくれたからだ。
数日後、長く続いた湿地帯はようやく終わりを告げた。
地面は乾き、風の中に、これまで感じたことのない微かな香りが混じり始める。
それは、しょっぱくて、生命力に満ちた「潮の匂い」だった。
「師匠、この匂いは……?」
「うみ、のにおい?」
初めての感覚に、クリスとロウェナは胸を躍らせる。
旅の終わりが近いことを予感し、その夜、三人は港町を前にして最後の野営を行った。
見晴らしの良い、小高い丘の上がその場所に選ばれた。
焚き火の炎がぱちぱちと音を立てる。
夕食を終え、三人はただ黙って、揺れる炎を見つめていた。
静寂を破ったのは、クリスだった。
「レイさんの歌……俺たちのことを、まるでずっと見てきたかのように歌っていましたね。無口な剣士と、真面目な弟子、そして太陽のような少女、か……」
彼は少し照れながらも、自分の胸の内を吐露する。
「俺は、レイさんが歌ってくれたような、ただ強いだけの物語の英雄になりたいわけじゃない。ヴァイデで、そしてこの旅で学びました。本当の強さとは何かを。俺が目指すのは……師匠のように、どんな時でも仲間を守れる、そんな人間になりたいのです」
その真っ直ぐで、力強い言葉に、エドは何も言わず、ただ静かに頷いた。
ロウェナは、眠そうな目をこすりながら、クリスの外套の袖をぎゅっと握りしめる。
三人の間には、もはや言葉など不要な、確かな絆が結ばれていた。
翌日、なだらかな丘を登りきった頂上で、三人の眼前に、それはあまりにも突然に、そしてあまりにも雄大に広がった。
どこまでも、どこまでも広がる、海の光景。
空と海の境界線が溶け合った、果てしない青の水平線。
太陽の光を浴びて、無数のダイヤモンドのようにきらめく、数えきれないほどの波。
そして、寄せては返し、決して止むことのない、腹の底に響くような壮大な波の音。
その圧倒的なスケールに、クリスとロウェナは完全に言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くす。
やがて、ロウェナの瞳から一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
「……きれい……」
俺は、そんな二人の様子を静かに見守りながら、遠い昔、孤児院の片隅で、厳めしい鎧姿の代官騎士が語ってくれた約束の景色と、目の前の光景を重ね合わせていた。
(騎士様……ようやく、来ましたよ。あんたが見せてくれたかった世界に、俺は今、一人じゃなく、大切な仲間と一緒に立っています)
丘を下り、俺たちは初めて砂浜というものに足を踏み入れた。
ブーツが「きゅっ」と鳴る独特の感触に、クリスは不思議そうに足元を見つめている。
ロウェナは、一目散に波打ち際へと駆け出し、白く泡立つ波と戯れては、甲高い歓声を上げた。
しばらく、三人は子供のように浜辺で過ごした。
やがて、遠くに見える港町の城壁を目指し、俺たちは再び砂浜を歩き始めた。
満ち足りた幸福感と、旅の終着点に着いた安堵感で、三人の足取りは軽やかだった。
その時だった。俺の隣を歩いていたロウェナが、胸いっぱいに潮風を吸い込むと、拙いながらも、ふと歌を口ずさみ始めた。
「あおい、うみ……しろい、なみ……しょっぱい、かぜ……えどと、くりすと、いっしょ……」
それは、レイが教えてくれたような洗練された旋律ではない。
彼女が今、目にしている景色を、感じたままの気持ちを、ただ音に乗せただけの、素朴で純粋な歌だった。
クリスと俺は、思わず足を止める。
どこまでも広がる青い世界に、少女の、たどたどしくも優しい歌声だけが響き渡っていた。
歌が終わる頃、俺たちの目の前には、巨大な港町リューベックの城門が、その威容を現していた。
長年の潮風に晒された石造りの壁、カモメたちの賑やかな鳴き声、そして門の向こうから微かに聞こえてくる、活気に満ちた人々の喧騒。
クリスとロウェナは、巨大な門を見上げ、息を呑んだ。
長かった旅のゴールであり、新しい冒険の始まりの場所だ。俺は二人に並び、門を見据えた。
「さて、行くか」




