霧の迷い路と幻の歌声
湿地帯での旅も、十日ほどが過ぎ、三人はこの土地の作法にすっかり順応していた。
最初にこの地へ足を踏み入れた時、クリスはぬかるんだ地面に足を取られ、じっとりと肌にまとわりつく湿気に辟易していたものだ。
だが、今ではブーツが汚れることなど意にも介さず、苔の生えた岩の上を軽やかに飛び移りながら、淀みなく進む。
ロウェナに至っては、この変化に富んだ環境が楽しい遊び場であるかのように、目を輝かせていた。
虹色に輝く羽を持つトンボを目で追いかけ、珍しい形の花を見つけてはその名前をクリスに尋ねる。
水鳥の鳴き声を聞き分け、「あ、いまの、あかい鳥!」などと指を差しては、俺たちに得意げに報告するのが彼女の日課となっていた。
土地には、その土地なりの歩き方と、生きるための知恵がある。
俺たちは、日々の旅の中で、それを着実に身につけていた。
そんな彼らの順応を試すかのように、その日の朝、湿地帯は牙を剥いた。
「ひどい霧ですね……」
クリスが不安げに呟く。
夜が明けても、世界は乳白色の闇に閉ざされたままだった。
視界は数メートル先までしか効かず、まるで分厚い羊毛の壁に囲まれているように、自分たちの息遣いと、ぬかるんだ土を踏む足音だけがやけに大きく響いた。
太陽の位置も分からず、頼りになるのはクリスが持つ方位磁石だけだった。
彼は地図とそれを交互に見比べ、必死に進路を維持しようとするが、同じような景色が続く中で、その表情には次第に焦りの色が浮かんでいく。
「師匠、どうにも……方位磁石の針が安定しません。これでは、我々がどこへ向かっているのか……」
やがて、クリスは悔しそうに足を止めた。
「申し訳ありません……これ以上は、私の力では正確な進路を維持できません」
「代われ」
俺は短く言うと、クリスから地図を受け取り、先頭に立った。
濃い霧の中、はぐれないように三人は互いの距離を詰め、肩が触れ合うほどにくっついて歩く。
俺は方位磁石には頼らなかった。
代わりに、足元のぬかるみの状態、水の流れる微かな方向、そして霧の中に時折ぼんやりと姿を見せる湿地帯の魔物の痕跡に意識を集中させる。
「この足跡……沼トカゲだ。奴らは深い沼地からはあまり離れない。地図によれば、沼地は東のはずだ。ならば俺たちはこっちへ向かう」
俺の言葉に、クリスは驚きの表情で、しかし確かな信頼の眼差しを向けた。
だが、そんな俺の経験をもってしても、この霧はあまりに深く、濃かった。
どれだけ進んでも霧は晴れず、やがて俺の足も止まる。
俺たちが今、地図のどこにいるのか、完全に分からなくなってしまった。
一行がぬかるみの中で完全に立ち往生してしまったその時だった。
深い霧の向こうから、ふわりと、歌が聞こえてきた。
それは、透き通るような男の声だった。
どこか物悲しい旋律でありながら、不思議と心に安らぎを与える、美しい歌声。
霧そのものが震え、音を紡いでいるかのような幻想的な響きが、俺たちの耳に届いた。
「師匠、これは……!」
クリスは物語で読んだ「旅人を美しい歌声で惑わし、沼に引きずり込む魔物」の伝承を思い出し、即座に剣の柄に手をかけた。
「我々を誘い込む罠やもしれません! 決して耳を貸しては……!」
だが、その歌声には、クリスが危惧するような邪悪な気配や、抗いがたい魔力のようなものは一切感じられなかった。
ロウェナは、怖がるどころか、その美しい響きにうっとりと聞き惚れていた。
彼女は目を閉じ、歌声がやってくる方角へ、じっと耳を澄ましている。
その表情は、まるで心地よい子守唄を聞いているかのようだった。
俺は歌声の質と、周囲の気配を慎重に探る。
「落ち着け、クリス。少なくとも魔物の気配じゃない。それに、この歌には害意がない。むしろ……何かを伝えようとしているように聞こえる」
俺の言葉に、クリスは半信半疑ながらも、剣の柄からそっと手を離した。
他に頼るものがない状況だった。
「……行くぞ。この歌を、道しるべにする」
俺の決断に、二人はこくりと頷いた。
三人は、霧の奥から流れてくる歌声だけを頼りに、再びゆっくりと歩き始めた。
不思議なことに、歌声に導かれるようにして進むと、足元のぬかるみは次第に固くなり、危険な沼地や流れの速い川を巧みに避け、安全なルートを辿ることができていることに気づいた。
歌声が大きくなれば道は正しく、小さくなれば間違っている。
まるで、姿の見えない誰かが、俺たちのために安全な道を示してくれているかのようだ。
どれほどの時間、歩いただろうか。
まとわりつくようだった霧が徐々に薄れ始め、閉ざされていた視界がゆっくりと開けていく。
そして、俺たちが小高い丘の上にたどり着いたその瞬間、あれほど鮮明に聞こえていた歌声は、まるで役目を終えたかのように、ふっと途絶えた。
丘の上は風通しが良く、乾いた地面が広がっている。
野営をするには、これ以上ないほど最適な場所だった。
俺たちは、まるで示し合わせたかのように空を仰いだ。
霧はすっかり晴れ、そこには満天の星が、まるで手の届きそうなほど近くに輝いている。
「助けられた、のか……」
クリスが呆然と呟く。
俺たちは、姿を見せぬ謎の案内人に、心の中で静かに感謝した。
しかし同時に、「一体誰が、何のために?」という大きな疑問が、焚き火の炎のように胸の中で揺らめいていた。




