約束の味と、新たな門出
『金獅子の咆哮亭』の一件が片付いた日の夜、俺たちが世話になっていた宿の食堂は、これまでにないほどの熱気と喜びに満ち溢れていた。
ヴァイデの小規模店の店主たちが共同で主催してくれた、ささやかな祝宴。
その主役は、俺たち三人――そして、特別に招待されたオーガのリーダー、モルグルとその護衛たちだった。
テーブルの中央には、つい先ほどオーガたちの協力で牧場から運び込まれたばかりという、極上の牛肉を使った分厚いステーキの大皿が鎮座している。
熱せられた鉄板の上で、肉汁がじゅうじゅうと音を立て、凝縮された肉の旨味と香ばしい焼き油の匂いが、食堂全体に広がっていた。
その脇には、商業組合の貯蔵庫で最高の食べ頃まで熟成されていたという豚肉の塊が、豪快なローストにされて湯気を立て、じっくりと煮込まれて黄金色の輝きを放つ骨つき肉のスープ、そして新鮮なレバーを贅沢に使ったパテが、焼きたてのパンと共に並べられている。
「さあ、エドウィン殿! クリス殿! ロウェナ嬢ちゃんも! 腹一杯食べてくだされ! これは我々からの、心ばかりの感謝の印です!」
宿の主人が高らかに乾杯の音頭を取ると、店主たちの間から割れんばかりの拍手と歓声が上がった。
ロウェナは、目の前に置かれた子供用のステーキに目を輝かせ、小さなナイフとフォークをぎこちない手つきで握りしめている。
「……おにく!」
その瞳に映るのは、純粋な喜びと、ようやく果たされた約束への満足感だった。
クリスは、店主たちからの度重なる感謝の言葉に、どうにも照れくさいのか、顔を赤くして何度も頭を下げている。
そして、テーブルの隅では、モルグルたちが巨大な骨つき肉を豪快に掴み、少し戸惑いながらも、その味を確かめるように静かに口へと運んでいた。
俺はエールグラスを傾けながら、その全ての光景を静かに眺める。
面倒なことに巻き込まれたと思っていたが、この温かい光景を見られるなら、まあ、骨を折った甲斐もあったというものだろう。
数日後、街の混乱もようやく落ち着きを取り戻し始めた頃、俺たちはヴァイデの街を本格的に見て回ることにした。
朝の市場は、まさしく『肉の都』の名にふさわしい活気に満ちていた。
「へい、らっしゃい! 今朝締めたばかりの新鮮な豚だよ!」
「こっちの牛は特上だぜ! 見てみな、この見事なサシをよ!」
肉屋の男たちが、まな板の上で巨大な肉の塊をリズミカルに切り分けていく。
その威勢のいい声と、焼きたてのパンの香ばしい匂い、そして様々な地方から集まったであろう香辛料の異国的な香りが混じり合い、歩いているだけで腹が鳴った。
ロウェナは、ぐるぐると渦を巻いた腸詰めの串焼きに目を奪われ、俺の服の裾をくいっと引っ張る。俺が一つ買ってやると、熱いのをふうふうと冷ましながら、夢中で頬張っていた。
昼食は、肉体労働者たちで賑わう庶民的な食堂を選んだ。
木の扉を開けた途端、むわりとした熱気と男たちの汗の匂い、そしてニンニクと油の食欲をそそる香りが俺たちを包み込む。
注文した料理は、大皿に山のように盛られた角切り肉のシチューだった。
ごろごろと入った肉の塊と、大きく切られた根菜が、濃厚な茶色のソースの中で湯気を立てている。
「うわっ……すごい量ですね、師匠!」
クリスがその豪快さに目を見張る横で、ロウェナは既にスプーンを握りしめ、口の周りをソースでべとべとにしながらも、一心不乱に肉を口へと運んでいた。
その食べっぷりに、周囲の労働者たちから「嬢ちゃん、見事な食いっぷりだな!」と陽気な声が飛ぶ。
午後は、少し足を延して貴族街に近い地区へと向かった。
そこは、これまでの喧騒が嘘のような、静かで洗練された空気が流れていた。
俺たちは、蔦の絡まる壁が美しいレストランのテラス席に腰を下ろす。
運ばれてきたのは、薄切りにした仔牛肉をハーブと共に焼き上げた、繊細な一皿だった。
鼻をくすぐるローズマリーの爽やかな香りと、上品なソースの酸味が、肉の柔らかな食感を引き立てている。
クリスは、背筋を伸ばし、実に優雅な手つきでナイフとフォークを操っていた。
その所作の一つ一つに、隠しきれない育ちの良さが滲み出ている。
対照的に、俺はどうにもこういう上品な場所は落ち着かず、早々に食事を終えると、少し離れた場所で煙草に火をつけた。
日が傾き始めた頃、俺たちは冒険者たちが集う酒場を覗いてみた。
そこは、エールと汗、そして燻製肉の匂いが混じり合った、荒々しい活気に満ちている。
クリスは、他の冒険者たちが語る武勇伝に興味津々で、話の輪に加わろうとしたが、俺は面倒事を察知し、その首根っこを掴んで制止した。
夜には、様々な国の料理を出す屋台が軒を連ねる一角を訪れた。
軽快な弦楽器の音色と、陽気な人々の笑い声が飛び交う中、俺たちは甘い蜜をたっぷりと絡めた羊肉の串焼きを頬張る。
ロウェナは、初めて食べるそのエキゾチックな味に目を丸くし、「あまい! おいしい!」と何度もおかわりをねだった。
俺はそんな二人の様子を、少し離れた場所から煙草をふかしながら眺めていた。
様々な顔を持つ、肉の都ヴァイデ。
その喧騒と活気の中で、俺たちの時間は穏やかに過ぎていった。
数日が過ぎた、ある晴れた朝。
俺たちはヴァイデの南門で、牧場へと帰るモルグルたちを見送っていた。
「エドウィン殿、クリス殿、そしてロウェナ嬢ちゃん。この御恩は、我ら一族、決して忘れん」
モルグルは、その大きな体で深々と頭を下げた。
その目には、心からの感謝と、種族を超えた友情が宿っている。
ロウェナが、おずおずとモルグルの前に進み出た。
そして、街で買った木彫りの小さな羊のお守りを、その大きな手にそっと乗せる。
「……またね」
屈強なオーガのリーダーは、そのあまりに小さな贈り物に一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにその無骨な顔をわずかにほころばせた。
「……ああ。またな、小さな恩人殿」
そう言って、お守りを壊さぬよう、慎重に革袋へとしまい込んだ。
「次に会う時は、もっと強くなっています! だから、あなたも達者で!」
クリスがそう言って手を差し出すと、モルグルは力強くその手を握り返した。
やがて、モルグルたちの一行が草原の彼方へと消えていく。
俺は、その背中に向かって短く告げた。
「達者でな」
再び三人きりになった俺たちの前に、どこまでも続く南への街道が伸びている。
「さて、と」
俺は二人に向き直った。
「俺たちの旅も、そろそろ次へ進むとしようか」




