慢心と敗北の味
闘技場に砂塵を巻き上げる乾いた風が吹き抜ける。
観客たちの熱気と期待が渦巻く中、本日の第五試合、クリスの三回戦が始まろうとしていた。
対戦相手として入場してきた男は、小柄だが、その全身から発せられる闘気は尋常ではなかった。
右手には短いグラディウス、そして左手には逆手に握られたダガー。
二本の刃が、傾き始めた陽の光を鈍く反射している。
「くりす、がんばれ」
俺の隣で、ロウェナが小さな声援を送る。俺は黙って、闘技場に立つ二人の剣士を見つめていた。
開始のゴングが鳴り響いた瞬間、試合は動いた。
相手の男は、まるで突風のようにクリスへと殺到する。
二本の刃が織りなす攻撃は、嵐そのものだった。
右のグラディウスが鋭く喉元を狙えば、返す刃で左のダガーが脇腹を抉らんと閃く。
手数の多さ、そしてその速さは、これまでの相手とは比較にならない。
クリスは完全に防戦一方に追い込まれていた。
キンッ! キィン! カンッ!
絶え間なく降り注ぐ刃の雨を、必死に一本の剣で捌き続ける。
一撃でも受け損なえば、即座に勝敗が決してしまうだろう。
観客席からは、クリスの劣勢を固唾を呑んで見守る、緊迫した空気が伝わってきた。
だが、その嵐のような猛攻の中にあっても、クリスの瞳の光は失われてはいなかった。
一撃、また一撃と攻撃を凌いでいくうちに、彼の動きから徐々に硬さが取れていく。
相手の攻撃のリズム、剣の軌道、呼吸のタイミング。
その全てを、その身で感じ取り、己の剣に適応させていく。
やがて、クリスの顔に、わずかな余裕が生まれ始めた。
(いける……!)
相手のグラディウスを剣で弾き、生まれたほんの一瞬の隙。
クリスは好機と判断し、再びあの決め技を放った。
「おおっ!」
気合と共に繰り出される、必殺の袈裟斬り。
二回戦で相手を沈めた、勝利の技。
しかし――
相手の男は、その一撃を待っていたかのように、大きく後ろへ飛び退いた。
クリスの剣は、空しく空を切る。
(読まれていた!?)
驚愕に目を見開くクリス。
その隙は、致命的だった。
相手は回避した着地の勢いを殺さず、逆に利用して、一直線に突っ込んでくる。
その突撃と全く同じタイミングで、左手に握られていたダガーが、きらりと光を放った。
投げられたダガーが、回転しながらクリスの顔面目掛けて飛来する。
クリスの意識は、眼前に迫るグラディウスの切っ先と、突進してくる相手の本体に集中しきっていた。
ダガーの存在に気づいた時には、既に対処するには遅すぎた。
「ぐっ!」
咄嗟に首を捻り、辛うじて急所は避ける。
だが、鋭い刃が左腕を深く抉り、赤い血が砂塵の上に飛び散った。
一瞬の痛みに、クリスの動きが止まる。その間隙を、相手は見逃さなかった。
瞬く間に懐へ潜り込まれ、グラディウスの刃が、防ぐ間もなくクリスの体を数カ所、浅く、しかし的確に切り裂いていく。
足、脇腹、そして肩。
支えを失った人形のように、クリスの体は力なく地面へと崩れ落ちた。
審判が駆け寄り、クリスの戦闘不能を確認すると、高く腕を突き上げる。
「勝者、フォーノ!」
その声が、静まり返っていた闘技場に響き渡った。
フォーノと名乗られた男は、倒れるクリスに近づくと、無言で手を差し伸べた。
クリスはその手を借りて立ち上がり、互いの健闘を称えるように、固く握手を交わす。
そして、すれ違いざま。
観客席からは見えない角度で、フォーノがクリスの耳元で何かを囁いた。
その言葉を聞いた瞬間、クリスはハッとしたように目を見開き、呆然と立ち尽くした。
その日の試合は全て終了し、ギデオンは危なげなく勝ち進み、明日の決勝戦へと駒を進めていた。
夜、俺たち四人はいつもの酒場にいた。
店に入るなり、大会を見ていた他の客たちから、次々と声が飛んでくる。
「クリス! 惜しかったなあ、明日はねえが、また頑張れよ!」
「ギデオン! 明日も頼むぜ! 優勝、期待してるからな!」
明らかに、ギデオンへの激励の声の方が多い。
その事実に、クリスは俯き、唇を噛み締めていた。
テーブルについても、その場の空気は重かった。
俺はエールを一口飲むと、静かに口を開いた。
「二回戦目、相手を自分のペースに持ち込んだのは良かった。だが、あの決め技は良くなかったな」
俺の言葉に、クリスが顔を上げる。
「あの技は、初見だからこそ効果がある。一度見せてしまえば、次からは対策されるのは当たり前だ。三戦目の相手は、お前の戦い方を見て、完全に見破っていた」
俺は淡々と、しかし厳しく続ける。
「技を放った後、もし避けられたらどうするか。その次に繋がる動きまで考えていなければ、ただの博打だ。決め技は、一つだけとは限らん。もっと他の手も考えておけ」
俺の指摘に、クリスは悔しそうに顔を歪めた。
「……試合の後、相手にも……全く同じ事を言われました」
辛気臭い雰囲気になったのを見かねて、俺はギデオンの方を向いた。
「すまんな、ギデオン。せっかくの祝勝会だというのに」
「はっはっは! 気にするな! なあ、クリス。負けたってことは、それだけお前にはまだ伸びしろがあるってことだ! めでてえじゃねえか! 頑張れよ!」
カラッとしたギデオンの励ましに、クリスは少しだけ顔を上げた。
俺は、そのクリスの背中を、バンッ! と強く叩いた。
「いつまで落ち込んでいる。これから、俺がみっちり教えてやるんだ。シャキッとしろ」
その言葉に、クリスは信じられないといった顔で俺を見つめた。
ロウェナも、クリスの背中を小さな手で優しくぽんぽんと叩く。
「……がんばろ」
明言はしなかった。
だが、俺が言外に弟子として認めたことを、クリスは理解したのだろう。
彼の目に、みるみるうちに涙が浮かんでくる。
だが、彼はそれをぐっと堪え、力強く頷いた。
「はいっ!」
心機一転、気合の入った返事だった。
クリスはギデオンに向き直ると、吹っ切れたような笑顔を見せた。
「ギデオン! 明日は、俺の分まで頼む!」
「おう、任せとけ!」
四つのジョッキが、高らかに打ち鳴らされた。




