沼地での試練
翌朝、俺はクリスを伴い、ギデオンに教えてもらったギルドの出張所へと向かっていた。
「……あの、エドさん。一体、どこへ?」
「見ての通りだ。お前を冒険者として登録させる」
俺の言葉に、クリスはわずかに眉をひそめ、足を止めた。
その表情には、戸惑いと、ほんの少しのためらいが浮かんでいる。
「冒険者、ですか……。俺は、その……」
「金がないんだろう。それに、身分を証明する物もない。この先、どうするつもりだ」
俺が淡々と事実を突きつけると、クリスはぐっと言葉に詰まった。
俺はため息をつき、続ける。
「闘技会で勝ち進めば賞金も出るだろうが、それまではどうする。俺はいつまでも面倒を見る気はないぞ。自分の食い扶持くらい、自分で稼がないと」
それは、クリス自身の問題を解決させると同時に、俺がこれ以上面倒な責任を背負い込まないための、俺なりに考えた合理的な提案だった。
出張所は、本ギルドとは比べ物にならないほどこぢんまりとしていたが、依頼を求める者たちでそれなりに賑わっていた。
受付で事情を話し、登録用紙を受け取る。
クリスは、観念したようにペンを握り、名前の欄に文字を書き始めた。
だが、数文字書いたところで、彼の動きがぴたりと止まる。
何かに気づいたようにハッとし、慌ててインクを滲ませて文字を塗りつぶした。
「す、すみません! 書き損じてしまいました! 新しい用紙をいただけますか!」
受付嬢から新しい用紙を受け取ると、今度は慎重に、『クリス』とだけ書き込んでいた。
俺とロウェナは、その一連の不自然な動きを気にすることもなく、壁に貼られた依頼書を眺めていた。
やがて、クリスの名前が刻まれた、真新しいGランクのギルド証が発行される。
それを受け取ったクリスの隣で、ロウェナが自分の鈍色のギルド証を胸を張って見せつけた。
「いっしょ」
嬉しそうにそう言うと、今度は俺の金色のギルド証を指差す。
「えど、つよい。ちがう」
その無邪気な言葉に、クリスは目を丸くしていた。
登録を終えると、俺はすぐさま依頼書が貼られた掲示板へと向かった。
初めて依頼票を手に取るのは、少しだけ胸が躍るような、奇妙な感覚だった。
「Dランク依頼、『沼地の水トカゲ討伐』。これを請けよう」
俺が依頼票を受付に提出すると、職員は俺のBランクのギルド証を見て、すぐに了承した。
「規定数は五体ですが、追加で討伐した分は、一体につき銅貨三枚で買い取ります」
俺たちは出張所を後にした。
その背後で、受付嬢たちが記録簿を広げ、ひそひそと囁き合っていることには気づかずに。
「ねえ、今の人……依頼歴ゼロなのに、Bランクよ……」
「本当だわ。一体、何者なのかしら……」
宿場からしばらく歩くと、空気はじっとりと湿り気を帯び、足元はぬかるみ始めた。
腐った植物と淀んだ水の匂いが鼻をつく。
「いいか、クリス。お前の剣は素直でいい。だが、実戦は稽古とは違う」
俺は、沼地を警戒しながら進むクリスに、最低限の助言を送った。
「一体ずつ完璧に倒そうとするな。常に全体の流れを読み、敵を『面』で捉えろ」
その言葉の意味を、クリスはすぐに体で理解することになる。
水トカゲは、群れで行動していた。
一体に斬りかかったクリスの死角から、別の個体が音もなく忍び寄り、鋭い爪を振り上げる。
「後ろだ!」
俺が叫ぶより早く、クリスはそれを気配で察知し、身を翻した。
だが、体勢が崩れる。
「足元を使え! 相手の注意を逸らせ!」
俺は直接手を貸さず、指示だけを飛ばす。
クリスは俺の言葉に、はっとしたようにぬかるんだ地面を強く蹴りつけた。
泥水が水トカゲの顔に飛び散り、一瞬、その動きが止まる。
クリスはその隙を逃さず、剣を翻して二体を同時に牽制し、距離を取った。
そこからの彼の動きは、見違えるようだった。
ぬかるみとそうでない場所を上手く利用して敵の足を鈍らせ、水草の陰に隠れて奇襲をかけ、一体の敵を盾にするようにして、別の個体の攻撃を防ぐ。
剣を振るうだけが戦いではない。
地形、敵の習性、全てを利用し、戦場全体を支配する。
俺が伝えたかったのは、そういうことだ。
やがて、クリスは独力で、規定数の五体を討伐しきった。
彼は肩で息をしながら、膝に手をついている。
「……休んでろ」
俺はそれだけ言うと、まだ沼地に潜んでいた水トカゲの群れへと、自ら足を踏み入れた。
俺の動きに、無駄は一切ない。
水面を蹴って水しぶきを上げ、敵の視界を眩ませた瞬間に三体の懐へ。
一体を蹴り飛ばして別の個体にぶつけ、体勢を崩した二体を、すれ違いざまに切り捨てる。
クリスが苦戦した群れを、俺はほんの数分で殲滅した。
クリスは、その圧倒的な実力差を目の当たりにし、ただ呆然と立ち尽くしていた。
宿場へ帰還し、出張所で依頼達成の報告を済ませる。
報酬の銀貨と銅貨を受け取り、俺たちは酒場へと向かった。
報酬を山分けする際、俺はクリスの前に、少しだけ多めに銀貨を置いた。
「……今日の働きに対する、正当な対価だ」
ぶっきらぼうにそう言うと、クリスは何も言えず、ただ黙ってそれを受け取った。
食事をしながらの反省会で、俺はクリスに最後の助言を送る。
「本戦の相手は一人だが、闘技場という『環境』そのものが、お前の敵にも味方にもなる。今日の経験を活かせ」
その時、小さな手が伸びてきて、クリスの皿に焼き菓子を一つ、ことりと置いた。
「くりす、つよかった」
ロウェナの片言の褒め言葉に、クリスは顔を真っ赤にして、照れくさそうに俯いた。




