朝市と水蛇
翌朝、目を覚ますと、あれほど激しく窓を叩いていた雨音が、嘘のようにぴたりと止んでいた。
窓を開けると、雨上がりの澄んだ空気が流れ込み、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
「ロウェナ姫、朝ですよ。そろそろお目覚めの時間でございます」
俺は昨夜のノリを引きずったまま、ベッドで丸くなっている小さな体に声をかけた。
部屋の中にいる間くらいは、このお姫様ごっこに付き合ってやるのも悪くない。
「……んぅ……えお……」
寝ぼけ眼のロウェナは、むくりと体を起こすと、ふらふらとした足取りで俺の元へ歩み寄り、そのままこてんと体を預けてきた。
まだ夢の中にいるらしい。
俺は苦笑しながら、そんな彼女の体を支え、顔を拭き、髪を梳かしてやった。
支度を終え、昨日と同じようにロウェナに手を貸しながら食堂へ向かう。
カウンターにいた店員に朝食について尋ねると、待ってましたとばかりに笑顔を向けられた。
「旦那! 雨が上がったんで、今朝は漁師たちも張り切って漁に出ましたよ! もう川沿いじゃ朝市が始まってます。そこの屋台で食べるのもいいですし、こっちの食堂も席が空いてますから、どちらでもお好きな方を!」
「それはいいことを聞いた。ありがとうございます」
礼を言い、俺たちは宿の外に出た。
川沿いへ向かうと、そこはもう活気に満ち溢れていた。
ずらりと並んだ露店からは、威勢のいい呼び込みの声と、食欲をそそる香ばしい匂いが立ち上っている。
炭火で焼かれた魚の串焼き、大鍋で煮込まれた貝のスープ、新鮮な川海苔を混ぜ込んだパン。
ロウェナは、初めて見る光景に目を輝かせ、キョロキョロと忙しなく首を動かしていた。
行き交う人の数も多くなってきたので、俺は彼女をひょいと抱きかかえる。
「ほら、こっちの方が見やすいだろ」
俺の腕の中からだと、市場の全てが見渡せる。
しばらく進むと、ひときわ大きな人だかりができている場所があった。
「あ!」
ロウェナが、その賑やかな方を指差す。
「ん? なんだろうな」
俺たちは、人垣をかき分けるようにして、その中心へと向かって行った。
そこは荷下ろし場のようで、人々の視線は、クレーンのようなもので吊るされた一つの巨大な獲物に集まっていた。
傷だらけの、巨大な水蛇だった。
その周りでは、屈強な漁師の一団が、興奮冷めやらぬ様子で、いかにしてこの大物を仕留めたかを高らかに語っている。
「いやあ、まさかアポン川でこいつにお目にかかるとはな! こいつは普段、もっと森の奥深くにいるはずなんだが!」
「雨で流されてきたのかもな! とんでもねえ化け物だったぜ! 船に噛みつこうとしてきやがって!」
「だが、どうも様子がおかしかったんだ。動きが鈍いっていうか……ありゃあ、俺たちが見つける前から手負いだったに違いねえ! 体にも古い傷がいくつもあったしな! 運が良かったぜ!」
逞しい漁師たちの武勇伝に、俺も内心で感心していると、腕の中のロウェナが、俺の胸元をツンツンとつついてきた。
そして、無言で吊るされた水蛇を指差す。
その指が示す先を見て、俺は息を呑んだ。
巨大な水蛇の、尻尾の先がなかった。
まるで、鋭利な刃物で断ち切られたかのように。
黒葉の森、増水した川、丸太橋の上での一瞬の攻防。
記憶が、鮮明に蘇る。
俺はロウェナと、無言で顔を見合わせた。
彼女も、気づいたのだ。こいつが、あの時の……。
俺はロウェナの耳元で、そっと囁いた。
「……またいつか、食べてみたいな」
その言葉に、ロウェナはこくりと頷き、俺の首にぎゅっとしがみついた。
荷下ろし場を後にし、俺たちは近くの屋台で朝食を買った。
焼きたてのパンに、こんがりと焼いた魚の切り身と野菜を挟んだものだ。
昨夜、宿で食べた繊細な蒸し焼きとはまた違う、豪快で素朴な美味しさがあった。
二人で熱々の魚を頬張りながら、宿へと戻る。
部屋に戻ると、干していた洗濯物は、まだしっとりと湿っていた。
「もう少しだな」
俺はロウェナをベッドに座らせ、捻挫した足の様子を見る。
腫れはだいぶ引き始めているが、まだ無理はさせられない。
「よし、薬を買いに行くか」
俺はカウンターへ向かい、店員に薬屋の場所を尋ねた。
ついでに、手帳を入れるための丈夫な革袋を扱っていそうな店も。
親切な店員は、地図を書いて丁寧に教えてくれた。
「ロウェナ、行くぞ」
俺は再びロウェナを抱きかかえ、薬屋を目指して、活気の戻った宿場町へと歩き出した。




