川の宿場とお姫様ごっこ
部屋に干された洗濯物が、ランプの淡い光を受けて静かに揺れている。
夕食の時間になり、俺はロウェナにゆっくりと手を貸した。
「さあ、行こうか」
まだ少し痛むであろう足を引きずるロウェナを支え、一歩一歩、慎重に階段を下りていく。
その様子を見ていた宿の若い女性店員が、くすりと笑いながら声をかけてきた。
「あらあら、まるで騎士様がお姫様をエスコートしているみたいですわね」
その言葉に、ロウェナは顔をカッと赤くして、恥ずかしそうに俺の後ろに隠れてしまった。
食堂に移動すると、そこは予想以上に多くの客で賑わっていた。
席数が少ないのか、ほとんどのテーブルが埋まっている。
「すみません、席は空いてますか?」
近くにいた店員に尋ねると、申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
「申し訳ありません。この宿場は川のすぐ側でして、新鮮な魚が名物なんです。晴れた日は、皆さん川沿いの屋台で食事を済ませることが多いので、うちの食堂は他の宿場に比べて少し小さめに作ってありまして……」
店員は、慌てて付け加える。
「ですが、味は保証しますよ! うちの親父の魚料理は絶品ですから!」
「なるほど。それなら、部屋で食事をさせてもらうことは可能ですか? 時間はかかっても構いません」
「ええ、もちろんです! では、後ほどお部屋までお持ちしますね」
俺は「今日のおすすめ」を二人分頼むと、ロウェナを連れて一度部屋に戻った。
「少し待っててくれ。すぐに戻る」とロウェナに一言かけ、俺は再び一人で食堂へと向かった。
先ほどの女性店員を捕まえ、俺は声を潜めてあるお願い事をした。
俺の言葉を聞いた店員は、ぱっと顔を輝かせる。
「まあ! さっきのお姫様にですね! お任せください!」
彼女はにっこりと笑い、任せてくださいとばかりに胸を叩いた。
部屋に戻ると、ロウェナが机に向かい、何やら真剣な様子で集中している。
俺が戻ってきたことにも、まだ気づいていないようだ。
(何をしてるんだ……?)
俺は扉に背を預け、物音を立てないように、静かにその様子を見守った。
ロウェナは、机の上に、自分の小さな指で何度も何度も何かを書いている。
それは、文字だった。
俺が教えた、彼女自身の名前。
そして、俺の名前。
たどたどしい指の動きで、一生懸命に、形をなぞっている。
その健気な姿に、胸の奥が温かくなった。
しばらくして、ふと顔を上げたロウェナが、俺の存在に気づき、ビクッと肩を揺らした。
俺は微笑みながら彼女に近づき、その頭を優しく撫でてやった。
「偉いな、ロウェナ。ちゃんと練習してるんだな」
褒められたのが照れくさかったのか、ロウェナは顔を赤くして、俺の胸をポコポコと小さな拳で叩いて笑っている。
しばらく二人で字の練習をしていると、コンコン、と扉がノックされた。
食事が運ばれてきたのだ。
テーブルに並べられた料理は、どれも湯気が立ち上り、食欲をそそる良い香りがした。
メインは、大きな葉で包んで蒸し焼きにされた川魚だ。
ふっくらとした白身は、ハーブの香りと魚自身の旨味で満ちていて、口に入れるとほろりととろけた。
付け合わせの、根菜をたっぷり使った温かいスープと、黒パンも、冷えた体には何よりのご馳走だった。
食事を終え、二人で満足して一息ついていると、再び扉がノックされた。
顔を出したのは、先ほどの女性店員だった。
「デザートをお持ちしました」
彼女が運んできたのは、豆を甘く煮て、ふかふかの生地で包んだ温かいお菓子だった。
「これは?」
「この宿場の側を流れる川はアポン川っていうんです。それにちなんで、『アポンまんじゅう』って言うんですよ」
店員はそう説明すると、ロウェナの前にそっと皿を置いた。
「さあ、お姫様。旦那様からのプレゼントでございます。どうぞ、召し上がれ」
その言葉に、ロウェナはきょとんとした顔で俺を見る。
俺も悪戯っぽく笑い、芝居がかった仕草で言った。
「ロウェナ姫、日頃の感謝の印だ。受け取ってくれるかな?」
二人に立て続けにお姫様扱いされ、ロウェナの顔はみるみるうちに真っ赤になった。
そして、恥ずかしそうに俯きながらも、小さな口で、こくりとまんじゅうを頬張った。
その日の夜。
ロウェナは、すっかりお姫様気分が抜けないらしい。
俺がベッドの準備をしていると、彼女は自分のベッドにちょこんと座り、俺に向かって言った。
「えど、あし」
そう言って、自分の捻挫した足を指差す。
どうやら、マッサージをしろということらしい。
俺は苦笑いを浮かべながら、その小さな足元に跪いた。
「はいはい、お姫様は足がお疲れでございますか」
捻挫した箇所を労わるように、ふくらはぎを優しく、ゆっくりと揉んでやる。
やがて寝る時間になり、俺がロウェナをベッドに寝かせると、今度は布団の中から俺を見上げ、にこりと笑ってねだって来た。
「えお、うた」
子守唄、か。
俺は知っている歌など一つもなかったが、仕方ない。
昔、孤児院で誰かが口ずさんでいたような、適当なメロディを鼻歌で歌ってやった。
ロウェナはそれに満足したのか、嬉しそうに目を閉じ、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。
その寝顔を見届け、俺は自分のベッドに戻る。
机の上の手帳が、ランプの熱で完全に乾いているのを確認し、ペンを取った。
今日の出来事を思い出し、自然と笑みがこぼれる。
――川沿いの宿場にて。お姫様は、たいそうご満悦のようだった。




