平原の夜明けと、小さな足跡
夜明けは、空の明るさだけで知ることができた。
灰色の雲は分厚く空を覆い尽くし、夜通し降り続いた雨は、その勢いを少しも弱めることなく地面を叩き続けている。
岩陰で身を寄せ合っていても、絶えず吹き付けてくる風が、容赦なく体温を奪っていった。
ロウェナは、すっかりむくれていた。
俺に掛けてもらった毛布にくるまり、岩陰の端っこで膝を抱え、ただじっと、終わりの見えない雨を眺めている。
時折、退屈そうにため息をつき、近くにできた水たまりを、拾った小枝でつんつんと突いていた。
やがて、それにも飽きたのか、今度は足元に転がっていた小石を拾い上げ、外に向かってぽい、ぽいと投げ始めた。
もちろん、その小さな石が雨音にかき消されるだけで、何かが変わるわけでもない。
そんな時間が、どれくらい続いただろうか。
昼をとうに過ぎた頃、ようやく、あれほど激しく降り注いでいた雨が、少しずつその勢いを弱めていった。
「……よし。今のうちに行くか」
俺は立ち上がり、背囊からロウェナの着替えを取り出した。
濡れて冷たくなった毛布をしまい、乾いた移動用の服に着替えさせる。
「さあ、ロウェナ。少しでも先に進もう。宿場に着けば、温かいものが食べられるぞ」
俺の言葉に、ロウェナはこくりと頷き、小さな手を差し出してきた。
俺たちは再び、ぬかるんだ平原へと足を踏み出した。
道だった場所は、もはや茶色い泥の川のようになっている。
一歩進むごとに、足がずぶずぶと沈み、思うように前に進めない。
慎重に、慎重に歩を進めていた、その時だった。
ズルッ。
「あっ!」
小さな悲鳴と共に、ロウェナが足を取られて派手に転んだ。
全身、泥まみれだ。
外套はもちろん、中に着ていた移動用の服まで、茶色い泥で汚れてしまっている。
それは、汚れてもいいようにと選んだ服だったが、ロウェナはひどくショックを受けたようだった。
大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まっていくのを、必死に堪えている。
「大丈夫か、ロウェナ!」
俺はすぐに駆け寄り、彼女の体を抱き起こした。
「どこか、痛いところは?」
ロウェナは小さく首を横に振るが、立ち上がろうとした瞬間、顔をしかめて小さく呻いた。
靴を脱がせると、右の足首が僅かに赤く腫れている。
(……捻挫、か。たいしたことはなさそうだが)
俺はロウェナの前にしゃがみ込み、背中を向けた。
「ほら、乗りな。ここからは、俺が運んでやる」
ロウェナは、申し訳なさそうな顔で、おずおずと俺の背中にしがみついた。
小さな体を背負い、俺は再び歩き出す。
雨と泥濘で足場は最悪だったが、ロウェナに心配をかけさせないよう、努めて平然と、力強い足取りで進んだ。
やがて、空を覆っていた厚い雲の隙間から、夕日を示す橙色の光がうっすらと差し込み始めた。
そして、遥か前方に、川沿いに広がる宿場の温かい明かりが見えてくる。
「見ろ、ロウェナ。もう少しだ」
俺の言葉に、背中でロウェナが小さく頷くのが分かった。
宿場に着いた俺たちは、一番大きくて綺麗そうな宿を選んで飛び込んだ。
「すみません、部屋を一つお願いします。それと、湯をすぐに用意してもらえませんか」
カウンターにいた人の良さそうな女将さんは、ずぶ濡れで泥だらけの俺たちを見て、驚きながらも優しく応対してくれた。
「あらまあ、ひどい雨の中、ご苦労様でしたね。お嬢ちゃんも、大変だったでしょう。ええ、すぐに湯を用意させますよ」
部屋に案内されると、俺はすぐにロウェナの泥だらけの服を脱がせた。
足の腫れは、幸いひどくはない。
運ばれてきた湯で、まずはロウェナの体を丁寧に拭いてやった。
ピップにもらった薬草をすり潰し、布に塗って優しく巻いてやる。
他に怪我がないことを確認すると、彼女は気持ちよさそうに目を細める。
その表情に、俺も安堵のため息を漏らした。
続いて、俺も自分の体を洗い、汚れた服を着替える。
さっぱりとした体でベッドに腰掛けると、どっと疲れが押し寄せてきた。
だが、まだやることは残っている。
俺は女将さんにもう一度湯の交換を頼み、脱衣所に汚れた服を持ち込んだ。
「ロウェナ、洗濯するぞ。見てな」
桶に張られた湯で、泥を丁寧に洗い落としていく。
ロウェナも、俺の隣で、自分の下着を一生懸命に洗い始めた。
見様見真似のぎこちない手つきだったが、その姿がなんだか微笑ましい。
「違う、そうじゃない。こうやって、優しく揉むように洗うんだ」
俺が手本を見せると、ロウェナは真剣な顔でそれを真似た。
洗い終えた洗濯物を固く絞り、部屋の中にロープを張って干していく。
部屋は、たちまち湿った匂いで満たされた。
俺は窓の外に目をやった。
雨はまだ、しとしとと降り続いている。
(この服が乾くまでは、動けないな……)
それに、ロウェナの足も、もう少し休ませてやりたい。
(まあ、焦る旅でもないからな)
俺はベッドの脇に置いた背囊から、騎士様にもらった手帳を取り出した。
だが、その手帳は、雨で端の方が少し濡れてしまい、インクが滲んでしまっている。
(……まずいな)
俺は心の中で小さく舌打ちをした。
(どこかで見かけたら、耐水性のある革袋でも買うか……)
そんなことを考えながら、俺は滲んだ文字を、そっと指でなぞった。




