それぞれの夜
泣き叫ぶロウェナを、俺はシスターの腕の中へと、ゆっくりと、しかし確かに押しやった。
小さな体は、まるで別れるのが世界の終わりであるかのように、必死に俺にしがみつこうとする。
その小さな指が、俺の服の端を掴もうと空を切る。
(ロウェナ…)
もう何も言うまい。
これが最善だ。心を鬼にしろ。
俺は振り返らず、孤児院の門へと向かった。
背後から、ロウェナの、声にならない、ひどく切ない泣き声が聞こえてくる。
シスターが何か話しかけている声も聞こえたが、内容は頭に入ってこない。
子供たちの戸惑ったような声も聞こえる。
門を出て、街道に出る。大きく息を吐き出す。
一人になった途端、胸の中に、鉛のような重さがのしかかってきた。
ロウェナの泣き声が、まだ耳の奥に響いている。
俺にしがみつこうとした、あの小さな手の感触が、まだ腕に残っているようだ。
罪悪感。
寂しさ。
そして、何よりも、この選択が本当に正しかったのか、という疑念。
安全な場所に、ちゃんとした大人たちがいる場所に、この子を届けたはずだ。
旅の危険から遠ざけ、安定した生活を与えてくれる場所に。
それなのに、安堵感は、全くなかった。
むしろ、広大な草原の中に、一人放り出されたような、心細さすら感じていた。
結局、面倒なことから逃げただけじゃないのか?
この子を危険な旅から遠ざける、という大義名分のもとで、ただ、自分がこれ以上深入りするのを避けただけなのではないのか?
自問自答が、頭の中で繰り返される。
いや、違う。
俺のような人間に、この子をいつまでも任せるわけにはいかない。
俺は天涯孤独だ。
いつ、どこで死ぬかも分からない。
それに、俺は衛兵を解雇された身だ。
定職もなく、当てのない旅を続けている。
こんな不安定な人間が、子供の面倒を見ることなんて、できるはずがない。
孤児院の方が、ずっとこの子のためになる。
そうだ。これが最善の選択だったんだ。
自分に言い聞かせるように、俺は歩き続けた。ロウェナと二人で歩いて来た道を、一人で歩く。
商店の賑わいや、人々の楽しそうな話し声が、なぜか遠く聞こえる。
街を歩きながら、ロウェナとの旅路を思い出す。
森の中で助けた時の怯えた顔。
新しい服を着て嬉しそうにしていた顔。
焼き菓子を美味しそうに食べる顔。
湯船に浮かぶ金色の髪。
そして、俺の名前を呼ぼうとしてくれた時の、一生懸命な顔…。
楽しかった。
正直に言って、面倒なことも多かったが、それ以上に、楽しかった。
だが、もう終わりだ。
あの子はもう、孤児院にいる。
俺の旅は、また一人になる。
…きっと、すぐに慣れるだろう。
そう、きっとすぐに。
俺は、誰もいない空を見上げて、煙草に火をつけた。
紫煙が、街の空気の中に溶けていく。
夜の帳が、ノーレストの街を優しく包み込んでいた。
孤児院の小さなベッドに横たわるロウェナは、眠ることができなかった。
初めての場所。
知らない人たち。
皆、優しくしてくれた。
シスターも、子供たちも。
でも、ここにはエドがいない。
シスターは「ここはあなたの家よ」「私たちは家族よ」と言ってくれた。
でも、ロウェナにとっての家は、もうここではない。
家族は、もう、エドだけだった。
泣きすぎて、声が出ない。
胸の奥が痛い。
エドが、自分を置いて行った。
あの優しい手が、自分を離した。
なぜ?
どうして?
ロウェナは、エドがいなくなるのが、一番怖かったのだ。
森の中で、暗闇の中で、一人だったあの恐怖。
人攫いよりも、ドレイクよりも、その恐怖は大きかった。
そして、エドは、その恐怖から自分を救い出してくれた光だった。
その光が、自分を置いて、行ってしまった。
シスターや子供たちの優しい声は、ロウェナの耳には届かない。
ただ、エドの顔だけが、目に焼き付いている。
夜が更けるにつれて、ロウェナの心の中には、悲しみよりも、一つの強い思いが芽生えていた。
…エドに、会いたい。
エドを探しに行こう。
言葉は話せない。
この街の事も、数日過ごしただけで詳しくない。
でも、いい。
エドがどこかで見ているかもしれない。
エドが自分を待っているかもしれない。
ロウェナはベッドからそっと抜け出した。
新しい服。
小さな背囊に外套。
何も持っていなかった私が、エドにもらったもの。
これが、ロウェナにとっての全てだった。
廊下には誰もいない。
物音を立てないように、ゆっくりと、孤児院の扉を目指す。
閂をゆっくりと外す。
シスターたちは、子供たちが夜中に逃げ出すことなど、思ってもみなかっただろう。
冷たい夜の空気が肌に触れる。
門を出て、街の中へ。
昼間の賑やかさはなく、街は静まり返っている。
時折、遠くから衛兵の見回りらしき声や、酔っ払いの歌声が聞こえるくらいだ。
漏れ出るランプの明かりだけが、心細く道を照らしている。
どこへ行けばいいのか、分からない。
エドはどこにいるのだろう。
宿屋?
それとも、もう街を出てしまったのだろうか?
不安が、波のように押し寄せる。
暗い。
怖い。
一人だ。
でも、ロウェナは立ち止まらなかった。
言葉は話せない。
誰かに助けを求めることもできない。
知っている人は、この街には誰もいない。
土地勘もない。
ただ、ひたすらに、エドを探すという強い思いだけが、ロウェナの小さな体を動かしていた。
足が冷たい。
お腹も空いた。
でも、構わない。エドに、会いたい。
ロウェナは、一人、夜のノーレストの街をエドの姿を求めてさまよい始めた。




