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UP TO YOU  作者: 来生尚
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「もう少し一緒にいても?」


 控えめな問いかけに首を縦に振ると、彼は嬉しそうに微笑む。

 腕時計で確認すると、まだ20時すぎ。

 明日の仕事に差し支えるような時間ではない。

 お化粧直しに席を外している間に会計も終わっていて、お財布を出す事さえ出来なかった。

 一体いくらくらいだったのだろう。

 メニューも一度も見ていないので想像も付かない。

 きっと高いに違いない。

 けれど押し問答はせずに、店の前で待っていたタクシーに乗り込む。

 なんか。ものすごーく手際がいいというか、慣れているというか。

 人が振り返るほどの美形で、大企業の親族となれば、どう考えても女性に困る事は無いだろう。

 きっと、こうやって誰かを食事に誘う事も、ごくごく日常的な事なのだろう。

 結婚しようって言ってくれたけど、でも……。

 心の中には不安が広がっていく。

 本当に? 本当に?

 たった一日。たった数時間しか共に過ごしたことがないのに、ホントに?

 疑念は幸せだった気持ちを侵食していく。

 どうして信じられるというのだろう。

 この人もまた、都合のいい言葉だけで振り回して、体よく捨てるかもしれないのに。

 頭の中に浮かんだ姿に、ぎゅっと奥歯を噛み締める。


「佳世?」


 顔を覗きこまれて、はっとする。

 心配を声に滲ませている彼に、首をふるふると横に振る。


「大丈夫です」


 体調を心配してくれたのかと思って咄嗟に答えると、ふっと彼が鼻で笑う。


「まだ何も言っていませんよ」


「あのっ。体調のことかと思って」


「うん」


 ふわりと頬を撫で、髪を梳いていく。

 そのてのひらが心地よくて目を閉じる。


「咳が出ていないのも、呼吸状態が悪くないのも、こうやって傍にいるからわかっていますよ」


 ふっと吐息が耳に掛かり、どきりと胸が鳴る。

 距離感の近さに驚き、目を開けると、すぐそばに端正な顔があって、ちゅっという軽いリップ音を立てて、頬に唇が落される。

 咄嗟にタクシーの運転手が気になって目を背けるけれど、今度は彼から目を逸らせないように、やんわりと顔の角度を戻される。


「佳世は他のところを見なくていいですよ。ただ真っ直ぐにこちらだけを見ていてください」


 その言葉どおりにすることに恥ずかしさはあったけれど、それでもその声には逆らえない。

 耳障りの良い魅力的な声が、心をぎゅっと捉える。

 真っ直ぐに彼を見つめ返すと、彼はふっと笑みを浮かべる。


「素直で可愛いですね。佳世は」


「そんな事言われたの、初めてです」


「ではそんな可愛いところは、他の誰にも見せないでおいてくださいね」


 顔が一気に朱色になったに違いない。

 それを彼は楽しそうに見つめ、ぎゅっと肩を引き寄せた。



 タクシーが着いたのは有名なホテルのエントランスで、彼は迷いなくエレベーターに進み、最上階で降りて迷いなくラウンジに入る。

 案内された席からは都心の夜景が、まるで光の帯や星のように見える。


「きれい」


 思わず漏らした言葉に、ゆったりとしたソファの隣に座る彼は目を細める。


「気に入っていただけたなら何よりです」


 彼は非日常のこの世界にも馴染んでいて、上質なスーツも、ピカピカに磨かれた靴も、こういった場所では目立たない。

 逆に、既製品の使い込んだスーツに身を包んでいる私のほうが、異分子のように思える。


「お腹はいっぱいですか?」


「……そうですね。ちょっと食べすぎちゃいました」


「そうですか。コーヒーと紅茶はどちらがお好きですか」


「紅茶が好きです」


 くしゅくしゅっと髪を撫でると、彼は手を上げて店員を呼び、いくつか注文をする。

 しばらくすると目の前にはチョコレートとマカロン、それにコーヒーと紅茶が運ばれる。

 周囲の人はカクテルなどを飲んでいるようだったので、テーブルの上に置かれたティーセットが、夜景の見えるこの場所とそぐわない気がする。


「お酒、飲まなくていいんですか?」


「飲みませんよ。飲んだら佳世にキス出来ないでしょう」


「……え?」


「アルコールを摂取した後にキスをして、佳世が具合が悪くなったら困りますから」


 そんな事、今まで言われたことなんて無い。

 アルコールを飲もうが、煙草を吸おうが、平気でキスする人としか今まで付き合ったことが無い。

 名前を口にしたくもないあの人も含めて。


「アルコールを摂取するよりも、佳世とキスするほうが大事です」


 大真面目に力説する彼がおかしくて、そこまで想ってくれているのかと思ったら嬉しくって、自然と笑みがこぼれる。


「やっぱり連れて帰れば良かったです」


「つれて?」


 突然何を言い出したのかと首を傾げた私の耳元に、吐息が掛かる。


「今すぐ抱きしめてキスしたい」


 囁かれた言葉に、全身が心臓になったかと思うくらい、鼓動が早くなる。

 きっとお酒を飲んだわけでもないのに、顔が真っ赤になっているに違いない。


「今日は帰さなくてもいいですよね?」


「え。それは」


 欲の色の篭った瞳で至近距離から見つめられて口ごもってしまう。

 いきなりそういう展開になるなんて考えても無くって、頭の中が真っ白。


「佳世?」


「あした、しごとが」


「ちゃんと送りますよ。会社まで」


「え。でもスーツ」


「それは何とかしましょう」


「何とかって?」


「何とかです。いざとなったらお休みしたらいいですよ。何で今日が金曜日じゃないんでしょうね。金曜日なら朝まで佳世を抱きしめていられるのに」


「……え?」


 今、ものすごく不穏なことを聞いたような。

 抱きしめてって、そのまま寝かさないというような意味合いに聞こえたんだけれど。


「やっと手に入ったのですから、もう逃がさないですよ」


 捕食者の目で見つめられ、もう逃げ道が無いと悟る。

 何を言っても無駄だ。多分聞いてくれない。

 ほんの数時間しかまだ一緒に過ごしていないけれど、彼はやんわりと自己主張して、決して自分の主張は曲げない人だと思う。

 諦め混じりに苦笑し、ふと、一つの言葉が心に引っかかる。


「やっとって?」


 それをそのまま口にすると、彼は決まり悪そうな顔をする。


「そこは流してくださって構わなかったのに」


「いえいえ。流せません」


 めったに見せない困り顔に、ふとこれが彼の弱点かも? と思って、攻めてみる。

 コーヒーカップに口をつけ、答えないとでも言うかのように口を噤んだ彼をじーっと見つめる。

 期待通りの答えが欲しかった。

 本当は不安で仕方ないから。

 あっという間に心を奪ってしまった彼が、実は本当は私に興味があるフリをしているだけとか、気紛れに抱いてみたいと思っただけだったとかだったらどうしようって。

 こんな素敵な人に、私なんかが似合うわけもないってわかっているから。

 だから、彼にとって特別な存在なのだと、彼の言葉を欲しかった。


「……一目惚れだったと言ったでしょう」


 照れたように言う彼の言葉に、ほっとしてしまう。

 何度か彼はそう言った。

 それが嘘ではないのだと、再び口にしたことに、不安が少しだけ溶けていく。


「どうやって佳世と接点を作ろうか。色々考えたんですよ。新しく何か受注をしようかとか。道端で声を掛けようかとか」


「ナンパですか?」


「……それしか方法が無いのなら」


 少しムッとした顔をしたので、ああ、そういう表情もするんだと、新しく見た一面を垣間見た気がする。


「だから、うちのバカな社員が佳世を病院送りにしたと聞いた時、天に感謝しましたよ。佳世と会う事が出来ると」


「そこまで?」


「ええ。どうしても佳世が欲しかったんです」


「どうして?」


「佳代の笑顔を自分だけのものにしたかったからです。こう見えて、結構しつこい性格なので、諦めてください」


 淡々と言いつつも、ほんのりと頬が朱色に染まった彼は、どことなく気恥ずかしそうに早口にまくし立てる。

 そんな彼の様子に心が満たされていく。

 信頼しよう。もしかしたら裏切られる日が来るかもしれないけれど、そんな日は来ないと信じよう。


「じゃあ、一つだけ」


「なんでしょう」


「透さん」


「はい」


「敬語、やめてください。何だか他人行儀な気がして」


 ふっと彼が目を丸くし、そして微笑む。

 何て嬉しそうな顔をするんだろう。

 その笑顔に胸がくすぐったくなる。


「イヤ? 敬語」


 ドキっと一際大きな音を立てて胸が跳ねる。

 これまでだってドキドキさせられぱなしだったのに、ふいに見せた素顔に、もう一度恋に落される。


「イヤです。だって、透さんが遠い感じがし」


 言葉は彼の唇に飲み込まれる。

 性急なキスで唇を啄み、薄く開いた唇の隙間から舌がぬるりと入ってくる。

 その感触に耐え切れず、んっと小さく吐息が漏れる。

 上顎を舐める感触に、ぞわっと鳥肌が立つ。

 ぎゅっと彼を腕を掴むと、ゆっくりと唇が離れていく。


「紅茶、後でゆっくり飲ませてあげるから。今は諦めて?」


「……はい」


「いい子だね」


 ほんの一瞬、ぎゅっと腕の中に閉じ込められる。

 腕を離した彼はソファから立ち上がり、目の前にその手を差し出す。

 その手を握って立ち上がると、彼はにこりと微笑んで耳元で囁く。


「行こうか」


 一体どこへ連れて行かれるのだろう。わからないけれど不安は無い。

 きっと私も彼に一目惚れしたのだと思う。

 最初に挨拶した時なのか、土下座する姿になのか。それともスマホをわざと忘れたと言ったその時なのか。それはわからない。

 ただ彼と共にいたいと思う気持ちに嘘は無い。

 To Be Next Story「溺愛編」

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