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診察が終わり、また黒塗りの車が待っているのかもしれないと内心身構えていたけれどいなかった。
ほっとした私に、あれは社用車だからタクシーで駅まで行きましょうと、タクシープールへと促される。
どうあってもバスに乗るという選択肢は無いらしい。
会社のあるターミナル駅までを、川西さんが行き先として告げる。
なんだかよくわからない、勢いに流されたような不思議な時間は、駅に着いたらおしまいかな。
きゅっと胸が締め付けられたのと同時に、鞄の上に置いていた手に、川西さんの手が重なる。
私のよりもずっと大きくて、でもキレイな手。
視線を重なった手から川西さんへと移すと、ぎゅっと川西さんの手に力が入り、手を握り締められる。
表情も目も笑ってなくて、でも怖いわけじゃなくて。
魅入られるように見つめ返してしまう。
視線を外すことなんて出来ない、引力みたいなのがある。
「田島さんは、和食と洋食、どちらがお好きですか?」
「……はい?」
何を言われたのか、頭に入ってこなかった。
ただただ、その視線の吸引力に引き込まれてしまっていて。
視線だけじゃなくて、意識まで全部引き込まれてて。
くすっと相好を崩した川西さんが再び口を開く。
今度は聞き逃さないように、視線は外しておこう。
目ではなく、口元に目線をずらす。
男の人なのに、つるっとした肌だなぁ。
「好きな料理とか食べ物とかありますか?」
「そうですね」
この場合の正解はなんだろう。
そう頭に浮かんだけれど、考える事は放棄した。
川西さんにとっての正解が、この数時間の会話だけではわからないから、ありのままに答えるしかない。
「パンが好きなんです」
「パンですか?」
「はい」
聞かれるままに話す。
家の近くにある小さなパン屋さんのこと。
土曜日は2割引になるから必ず買いに行くこと。
多目に買って、日曜日の朝ご飯にする事。
朝6時からやっているので、たまに朝買ってから出勤する事も。
そんな一方的な話を川西さんはニコニコしながら聞いてくれる。
「よっぽど好きなんですね。パンはどんな種類が好きなんですか? 例えばメロンパンとか」
メロンパン。
まさか高級そうなスーツに身を包んだ川西さんからそんな単語が聞けると思ってなくて、自然と頬が緩む。
「好きなんですか? メロンパン」
「んー」
聞き返すと、川西さんが少し考えるように視線を逸らす。
あ。この反応初めてかも。今までどんな事も淀みなく好きのない笑顔で答えていたのに。
「好きといえば好きですけれど。出来たら皮だけ食べたいですね。中の白い部分の必要性を感じません」
「あははっ」
自然と笑みがこぼれると、川西さんはバツの悪そうな顔をする。
「ありますよっ。今皮だけのメロンパン売ってますよ。スーパーとかコンビニで」
「そうなんですか。今度買います」
「どんだけ好きなんですか。メロンパンの皮っ。でもスーパーとかコンビニなんて行かないんじゃないんですか?」
「行きますよ。普通に」
意外。という言葉は飲み込んだ。
若いのに企業の支店長なんてしている人だし、絶対にそれなりの生活してるんじゃないかって穿った目で見ていたから。
「自炊、面倒じゃないですか」
「川西さん、一人暮らしされているんですか?」
「はい。なのでコンビニ愛用者です」
「そうなんですねー。私もなんです。っていうか、家事能力すごく低いんですよ」
「へえ?」
「大学から一人暮らしなんで、掃除はそこそこ出来るんですけれど、料理がホント全然ダメで」
「全然というと?」
「鍋焦がすレベルです。なのでもっぱらパスタ茹でて市販のソースかけて晩御飯です。あとはコンビニ様様です」
川西さんが笑い声を上げたけれど、それは嫌な感じはしなかった。
バカにする感じじゃなくって、純粋に話を楽しんでくれている感じを受ける。
「パスタにパンも合いますよね。フランスパンとかクロワッサンとか」
「そうなんですよ! で、そのパン屋さんがすごく美味しいんで、本当に毎日食べても飽きないくらいです」
「そんなにですか?」
「そんなにです。きっと川西さんもそこのメロンパンなら、皮だけなんて言いませんよ」
「食べてみたいですね。お店はどのあたりなんですか?」
「うちの本当に近くなんです。駅で言うと……」
最寄り駅を伝えると、川西さんが首を捻る。
「都内なんですか?」
「はい。都内です。本社に行く時に乗り換えナシの一本で行ける場所を選んだんです。家賃補助も出ますし」
「通勤、大変ではないですか?」
「下りなので混まなくて、時々座れるので、全然大変じゃないですよ」
「そうでしたか」
ふっと川西さんの視線が窓の外に移る。
もう駅のロータリーが近付いてきていた。
これでおしまいなんだな。
思いのほか弾んだ会話に終止符が打たれることに、物足りなさを感じる。
けど、しょうがない。
無意識に鞄を握り締めようとして、まだ川西さんと手を繋いだままだった事に気付く。
引っ張ってしまったような形になり、川西さんが「ん?」と言って顔を覗き込んでくる。
意識するよりも先に、頬がかーっと熱くなる。
「……なんでもないです」
目を逸らしながら辛うじて答えると、繋がっていた手が離れていく。
その指先を引き止めたくなったけれど、指の先一つ動かす事が出来ない。
離れていく手を眺めていると、そっと頬を撫でられる。
「美味しいパンではありませんが、夕飯をご一緒にいかがですか」
「えっと、あの」
「一人暮らしだと和食が恋しくなりませんか?」
「なりますけど」
「では和食にしましょう」
頬から手が離れていくと、やっと頭が回りだす。
一瞬頭が真っ白になって同意しちゃったけど、一緒に食事? 夕飯? これから?
最初に嬉しいっていう気持ちが来て、それからどうしようって焦りがきた。
まさか手料理を食べさせてくださいなんて、まかり間違ってもこの展開で言わないよね?
もしくは逆で手料理を食べさせてくれる?
いやいや。それも無い。
頭が混乱して、無い無い無い無いでいっぱいになる。
そもそも何でこんなにパニックになってるの?
ありえない。
一人パニックに陥ってると、タクシーは駅のロータリーに止まり、扉が開く。
運転手さんにカードを手渡し、あっという間に会計を済ませると、何事もなかったかのように私の手を引いて歩き出す。
「かわにしさん」
「はい?」
「あの。ありがとうございます」
「どういたしまして」
お金払いますとか、半額出しますなんて言ったって、この人が聞くわけも無い。
夕飯でその分は返そう。
短い感謝の言葉に意図は伝わったようで、それ以上何も言わない。
色んな意味でスマートな人だ。
頭の中に浮かんだ誰かとは(脳内ですら名前を挙げたくない)全く違う。
ぎゅっと握られた手に力が入る。
「友人がやっている店がありまして、都内なんですが、いかがですか?」
否とは言わせない。
口調の柔らかさや穏やかさとは違い、目線はそう伝えてきた。
もうこうなったら、とことん付き合おう。
どうせ今日だけの事だ。
イヤって言ったって、丸め込まれるに決まっている。
「いいですよ。あ。お酒は飲めませんよ」
目線が和らぎ「知ってますよ」と川西さんが告げる。
「実はあまりお酒は得意なほうではないので、助かります。一緒に締めの日本茶を堪能しましょう。食事と共に供されるほうじ茶も美味しいですよね」
「ふふっ」
合わせてくれているのかもしれない。
それでも嬉しくて笑みが零れる。
こんな風に言ってくれた人、今までいなかった。
嬉しくてぎゅっと手を握り返すと、川西さんの目が驚きで丸くなる。
「ほうじ茶、美味しすぎてお茶でお腹いっぱいにならないように気をつけますね」
「飲みすぎだって止めますよ」
「早めにお願いしますね」
一体どんなお店に連れて行ってくれるのかはわからないけれど、足取りが弾むように軽くなる。
そんな私を見て、川西さんは目を細める。嬉しそうに。
それがくすぐったくて、嬉しくって、でも同時に今しか味わえない瞬間なのだろうという諦めの気持ちが浮かぶ。
「田島さん!?」
声をかけられるまで気がつかなかった。
そのくらい浮かれていたのだろう。
「のむらくん」
ぱっと手を離そうとしたけど、握られた手は離れなかった。
「病院は終わったんですか?」
「あー。うん。終わったよ。吸入もしたからラクになった。野村くんはどうしたの? こんなとこで」
まだ終業時間よりもほんの少し早い。
こんなところ歩いているわけがないのに。
「ラボに用事があって行ってました。えっと」
野村くんの視線が、繋いでいる手、それから川西さんへと移る。
説明を求められても、今説明できる自信は無い。
真実を言っても、嘘をついても、この場が混乱するとしか思えない。
川西さんの顔を伺うように見ると、川西さんが私に向かって微笑みかける。
数時間で慣れてきたとはいえ、その笑顔を見るだけで頬に朱が差してしまう。
「はじめまして。婚約者の川西です」
「かわにしさんっ!?」
「同僚の方ですね? いつも佳世がお世話になっています」
「……あ。いえ。寧ろ自分の方がお世話になってます。すみません」
何故か謝る野村くんの目は真ん丸だし、ところどころ噛みながら何とか答えたって感じ。
そうだよね。そうだよね。
彼氏いないって公言してるもん。
コレ誰だって感じだよね。
「ではこれで失礼します」
川西さんがキレイなお辞儀で頭を下げると、慌てた様子で野村くんがそれ最敬礼じゃないの? って角度まで頭を下げる。
落ち着いているのは川西さんだけで、野村くんも私もめちゃくちゃテンパっている。
「あの?」
見上げた川西さんは、ふっと口元を上に引き上げる。
「行きましょうか」
返事も聞かないうちに、川西さんは手を引っ張って歩き出す。
怖くて後ろは振り向けなかった。
後でLINEで口止めしておかなきゃ。




