第34話 『巡回牧師の憂鬱』
碧の建国王が座を息子に譲った時、新たに王となった男は父たる先王にこう言った。
「武勲では妹の方が上です。臣も民も、それを知っています」
先王は頷き、金鉄の鎧を身につけた耳の長い王女を見た。
深く鮮やかな朱の髪を束ねた美しい王女は、玉座にいる兄を大真面目な顔で一瞥し、呆れるように息を吐いた。
新王よ、今は戦乱の時代ではありません。国に求められているのは武ではなく、国を豊かにするための智恵と力です。私は国を襲う悪漢を討つことは得意でも、民草に笑顔を与えるのは貴方ほどではない。
それに私は独り身ではありませんか。
耳なが王女はそう言って兄たる新王からの禅譲を拒んだ。王女は兄たる新王を助け国の発展に寄与し、兄たる王に並んで民に慕われた。だから兄王が座を降りる時、王は妹たる耳なが王女に譲るべきかを考えた。
彼女はやはり笑ってこう言った。私はまだ夫も迎えていないではないか。次代に継ぐ血を残していない私が王を継いだのでは、国は遠からず滅びてしまうと。彼女は兄の子を新しい王にと推し、甥である王を補佐することにした。
そうして。
碧国王は、旅の巡回牧師より興味深い噂を聞いた。
あの耳なが王女に恋人ができたという。それも出会って即座に彼女から結婚を申し込むほどの。
「水臭いですぞ、叔母上」
ある日、碧王は耳なが王女との食事の席で話を切り出した。
「夫となるべき男性に巡り合ったそうですね」
心より祝福の言葉を述べ、碧王は叔父になるべき人物がどんな男なのかを尋ねた。
最初、耳なが王女は返答を渋った。
答え方によっては、彼女が次の王座を継ぐことになる。碧王は事実その通りのことを考えていたし、根回しも済ませていた。薄々感づいていた耳なが王女は甥を見つめ、やや呆れるように息を吐き、期待と不安に満ちた周囲の一同を見た。
咳払いを一つ。
「あー、私の夫になる者。名はニコラス、ニコラス・ハワド」
「齢は?」
「次の誕生日で九歳になる」
空気とか理性とか国家行事とか信頼関係とか、その他想像できる限りの総てが凍りついた瞬間だったと、同席していた巡回牧師は述懐している。
◇◇◇
巡回牧師の起源は定かではない。
そもそもセップ島において神というものが、騎士の生命健康並みに薄っぺらく、安っぽい。とはいえ道徳や価値観の指標となりうる宗教は存在し、偉大な業績を残した人物や、近年心を入れ替えたのか時々苦境で手助けしてくれるような新妻ドラゴンあたりを拝んでいる。その崇拝は絶対服従ではなく、あくまでも畏敬の念に近しい。
信仰対象によっては御本尊が味付けを少々間違えて凹んでいる様とか、夫の衣服に僅かに残った香油の匂いが元で村落壊滅寸前の喧嘩を始めるのだから、そこに威厳を求めるのは酷というものである。
人々が神に求めるのは威厳ではない。
威厳では。
『にゅううううううっ、こんなの違うでにゅうっ』
太陽神アポロダインを崇める神殿。
ついでに言えば総本山。
詳しく述べれば、セップ島に喧嘩を売ってさっくり返り討ちにあって、泣いて土下座して謝って、ようやく普通の布教活動を開始した太陽神崇拝の、まさに御本尊が住んでいる本殿のど真ん中。
多くの信者に囲まれて、女神アポロダインは半べそをかいていた。膝上どころか股下ギリギリにまで丈を詰めたスカート、そこより伸びる脚は適度な肉付きと張りを持っている。くびれた腰、幼い顔に似合わぬほど見事に膨らんだ乳房を包むのは、太陽神崇拝の慎ましさを象徴するような、面積の小さい布。
下も谷間もばっちり見える。春を売る女たちとて、ここまであからさまに媚びた衣装は身につけたりはしない。それを、女神アポロダインは着用していた。
させられていた。
『あ、あ、あ、あぽりん、こんな恥ずかしい格好もういやだにゅうっ。地味でも皆で仲良く暮らせるようにがんばりたいにゅうっ!』
「アポロ様、宗教とは人気商売なのですよ」
「そうですよ。都で評判の雷皇女を御覧くださいな。いま信者を獲得するには、可憐さと適度な御色気と恥ずかしげな言葉遣いなんですよ。男性信者の気持ちをぐぐっと掴むには」
『そんな信者いやでにゅうううううっ!』
あふれる涙を撒き散らしながら、じたばたともがく女神アポロダイン。
違う。
なんか違う。
こんなん違う。
滂沱の涙を流しつつ、巡回牧師は【恥ずかしいポーズを次々と取らされ恥ずかしい台詞を連呼する女神】の姿を描きとめた。
◇◇◇
巡回牧師がセップ島で本格的に紙芝居を扱い始めたのは、大きな大きな戦争の最中だった。
星の船、星の涙。
外の世界からやってきた神々は、誰も見たことない宝物を求めて小さな国々に攻め込んだ。いつもなら簡単に神様を追い返している恐るべき獣たちは、神々が一緒に連れてきた恐ろしい恐ろしいバケモノたちを食い止めるので精一杯だった。
それはもう、昔々に住み着いて、魔女に閉じ込められていた神様だって目を覆いたくなるような、そういうひどい連中だった。だから神様の何柱かは、自分達を見張っていた竜に言ってやったのだ。
『わたし達を見張る力を、民草を守るために使ってくれ。わたし達だって、あの暴れている連中には心底腹が立っているのだから』
神様と約束を交わして、竜は島を守るために飛び出した。自由になった神様は考えた。
あのバケモノたちの天敵がセップ島に生まれるのは、たぶん何十年も先だろう。それを待っていては、きっと島は消えてしまう。恐るべき獣が守ってきたものも、魔女が遺したものも、全部一緒に。
それは、わがままな神様にだって耐えられないことだった。だから神様は考えた。
外から来た神々は確かに強いけど、セップ島のみんなが力をあわせれば勝てない相手ではない。みんなが力をあわせれば、あのバケモノの天敵を外の世界から招くことだって不可能じゃない。
でも、みんながひとつになって戦ってくれるだろうか?
力が弱いと思い込んでいる人間達の心は、今しも折れて砕けそうではないか。人間の心が折れてしまったら、他の連中だって時間の問題じゃないか。あの憎たらしい魔女たちが未来を託した人間が、こんなところで滅んでいいはずがない。あの油断のならない人形王子の子孫が、この程度で絶望するはずがない。
神様は島中に住む者へ、頑張っている者へ、心が折れそうになっている者へ檄文を送った。お前達は、こんなに凄い奴らの子孫ではないか。お前達の仲間は、こんなにも頑張っているではないか。お前達だって、凄いことができるんだ。あんなバケモノに頼った連中なんて蹴散らしてしまえ。
神様は、神様が知る限りの「凄い奴ら」の話を絵姿付で書いた。簡単には破れないように金鉄を叩いた薄い板に紙を張り、何千年経っても色あせぬように厚く絵の具を重ねた。そうして神様は、書き上げた何千もの何万もの手紙を巡回牧師に託した。
当時としては珍しい郵便業務の合間に説法していた巡回牧師たちは、外から逃げ回りながら各地の話を伝え、神様に託された一抱えもの手紙を渡し、あるいはせがまれて読み上げた。
一緒についてきた楽師が曲を添えることもあった。
旅芸人の一座が即興劇に仕立てることもあった。何年も何年も巡回牧師たちはセップ島のあちこちを歩き回り、みんなを少しずつ励ましていった。
「それでまあ、人々に希望を与え人気を獲得したうちの御本尊はですね」
碧国の都に近い工房にて、巡回牧師は誇らしげに胸を張った。
「いろんな神殿と契約を結んで紙芝居を製作し、説法と演奏もできる巡回牧師を育成する秘密結社を立ち上げたわけです」
「……宗教団体ではなくて?」
ニコラス・ハワドの問いかけに、巡回牧師は工房を見せる。
原画に合わせて磨き上げられた銅に鋼の筆で細緻な線を刻み、金鉄の小刀でスポンジケーキのように銅を削っていく。そうやって百数十人の職人が、様々な物語を銅板に刻む。同じ図案の銅板が並ぶのは、七色刷りという他では到底真似できない技巧を駆使しているためだ。
「うちは信者より職人が欲しいので」
「どうして秘密なのさ」
「物語の結末を先に明かしてしまったら、誰も楽しんで紙芝居を観劇してくれないでしょう?」
なるほどそれはもっともだとニコラスは感心し、巡回牧師は満足げに何度も頷いた。
◇◇◇
「それで、話題作りのために色々努力しているけど、人気取りのような軽薄な活動は好ましくないわけですね」
清貧を地で行く太陽神殿の暮らしぶりに少なからず驚きを抱きながら、ニコラスは茶をすすった。
苔とも茸ともつかぬ地衣を乾して叩き茶葉に見立てたそれは、神殿のある山岳地の名産だとか。なるほど近頃太陽印の薬茶が出回っているとは聞いていたが、よもやここで作られていたとは。
「この茶があなたの手摘み品だと宣伝するだけでも、皆の見る目は変るでしょうに」
『そうでしょうかにゅう?』
にゅう。
トレーを抱え可愛らしく小首をかしげる女神アポロダインの仕草に、ニコラスはひっくり返った。
『どうかしましたかにゅう? やっぱり、この言葉遣いって変でにゅう?』
「まあ、それなりに」
そういえば古文書にあった魔物の女王ルルアゼートも、正気を疑いたくなる言葉遣いで契約書を結んでいた。魔界とやらの裁判に被告として出廷した時に見ただけだが、耳なが王女や学舎のウェイトレスが知ったら呆れ果てるか激昂するような内容も書いてあったはずだ。なにしろニコラスが内容の意味するところを理解したのは、後年になってフランツ・バルゼット秘蔵のポルノ紙芝居を見てからだったわけで、そのマニアックすぎるシチュエーションとプレイの数々にさしものニコラスも気が遠くなったものだ。
この女神は、同じ修羅の道を歩もうというのか。
「前例があるからといって、盲従するほど困窮していないでしょ」
『それはもちろんだにゅう』
アポロダインは即答し、隣にいた神殿長がしぶしぶ同意する。神殿長というよりは、芸人の予定を管理する女支配人にも見えるのだが、神と人の関係に口を挟むのは野暮というものである。
「でも、うちのアポロ様はには素質があるんです。もうしばらく頑張れば、年末に行われる紅碧対抗舞踏会に特別出演できるくらい。水面下で既に出演交渉がありまして」
「なんですか、そりゃ」
「ですから紅碧対抗舞踏会。年末恒例の、踊り子や楽師にとっては最も名誉のある公式行事じゃないですか……まあ、近年は赤帝神殿に勤めている綺麗どころのお嬢さんたちの独演会状態ですけど。御存知ありませんか、メアリ・ガルネットとかステシィ・ピジョンブラドとか」
同姓同名の知り合いがいるのを思い出して、ニコラスは頭を抱えた。鮮血の魔女という異名を持ち、言い寄る男どもに容赦ないハイキックを炸裂させるも、盆の上のグラスより葡萄酒を一滴たりともこぼしたりしない、魔法学舎の学生カフェテラス名物のウェイトレスたちだ。
「ぞんじません」
きっぱりとニコラスは答える。知っていたとしても知ってはいけない世界というものを、色々と見聞きしているニコラスである。
「とりあえず、ぼくへの用件とは」
「都で評判の、サージェリカ嬢の人気の秘密を教えて欲しいんです」
真剣な顔の神殿長。
「秘密ですか」
「ええ、サージェリカ嬢は確かに逸材です。うちのアポロ様でも正面からぶつかれば無傷ではいられないほどの。でも、ここまで圧倒的な差が生じるからには、別の要素があるはずなんです。
歌が上手いとか、
料理上手とか、
夜中ひとりではトイレにいけないとか、
そういう、信者の心をくすぐるような秘密があると思うんです」
「くすぐるかどうかは、わかりませんけどね」
なにかを思い出したのか、ニコラスは腕を組み唸りつつ、それから少しばかり申し訳なさそうに女神アポロダインを見た。
「ぼくの妹、人間形態の時は鱗とか竜革を分解再構成して衣服に変えているんです。雷皇女として活動する時の衣装とかも全部」
『にゅる?』
「つまり……サージェリカ嬢は、すっぽんぽんであると」
『にゅるっ!?』
「端的に言えば、その通りです」
『にゅっ!!?』
「なるほど。恥ずかしい着衣に見せかけて実は何もつけていない全裸状態だったのですね。だとすれば、アポロ様が対抗する方法も見えてきますね」
『にゅるるるっ!?』
「たとえばアポロ様ってミニスカートですけど、その下に何も履いていなかったら凄まじい破壊力ですよねっ」
同意を求められても困るので、ニコラスは沈黙した。その間も神殿長は「寄せて上げたり」とか「膝上までの白靴下を早急に手配しなければ」など、怪しげなる笑みを浮かべている。
周りなど見えていない。
見えていないから、女神アポロダインがテーブルに【捜さないでください】との置手紙を残して逃げ出しても気付かなかったし、一部始終を目撃していたニコラスとしても別に報告する必要性を感じなかった。もちろん、同席していた巡回牧師も一言も発さず、ただただ女神に幸あれと心の中で涙を流すばかりであった。




