一話 気になる夢
エッチング銘板に『龍ケ崎高校』と書かれた校門を駆け抜ける小柄な少女。走ると耳の上あたりでサイドテールにした長めの髪が、結んだ黄色のリボンと一緒に揺れている。大きな瞳は、意志の強そうな印象を受けるかもしれない。紺のセーラー服の上に紺色のカーディガンを着て、つい朝食をたくさん食べて少し遅くなった事を嘆きながら、急いで教室に向かっていた。
九月も終わり十月になると、制服も冬服に変わった。洗濯したての制服から漂ういい香りなのに、晴れた朝の空で芳しく思える余裕が、今の彼女にはない。金木犀の香りが漂う校舎迄の通りを、ただ必死に走る。
――大丈夫、まだ間に合う。
学校の正面にある大きな時計を確認しても、走る事を止めずに少女は走っていた。周りには、同じように足早に教室に向かう生徒が数人いた。彼らと競うように、少女は急いで鳴り始めた予鈴を耳にしながら『二年三組』と書かれた札が下がる教室の中に滑り込んだ。
「おはよー、ありす。今日も安定のギリギリじゃん」
もうそろそろ席に座り始めたクラスメイトの内、一番前の席の友人が話しかけてきた。
「だってさ、愛美ちゃん! 秋になり始めたから毎日のご飯が美味しくて美味しくて! 流石味覚の秋! 今日もご飯食べ過ぎて、遅くなったんだよ!」
ありすと呼ばれた少女は、愛美に興奮気味に返事をした。
「それにさ、変な夢ばっかり見るんだ。同じ夢を何度も。世界史で習った、古代ローマとか古代ギリシャみたいな人が出てくる夢! それで起きるのも少し遅くなるんだ」
まだ興奮気味に話しているありすを見ていた愛美が、何故かくすりと笑った。きょとんとするありすの頭を、不意に背後から何者かがポンポンと叩いてきた。誰かと振り向けば、二年三組担任の三船だった。背が高く生徒と対等に話す事から男女問わず人気がある、世界史の教師だ。
「世界史に興味があるのは構わないが、もうHRの時間だぞ。席に座りなさい――黛ありす君」
「はーい」
そう小さく返事をして、ありすは窓際の二列目の席にそそくさと座った。出席確認を始める三船の声を聞きながら、彼女は夏から秋に移り変わろうとする窓の向こうの景色に視線を向けた。緑から黄色に変わる木々の葉のグラデーションが綺麗に広がっている。
しかし、どうしても思い浮かべるのは夢の事だ。
まるで自分もそこに居て、焦げた匂いと血と、砂埃の匂いすら感じたような夢だ。アリスタイオスの苦しみや痛み。絶望すら、ありすの胸を苦しめる。そんな古代の戦いの映画を見た事が無ければ、世界史の授業もほぼ寝ていたくらいだ。こんな夢を続けて見る覚えはない。
そうだとしたら――この夢には何か、意味があるんだろうか。
HRでは、秋の文化祭の役員決めの話が出ていた。そうしてそれが終わると、皆が一限目の数学の教科書を出し始め、少し教室内が話し声で騒がしくなる。
「黛」
教室を出ようとしていた三船がふと声をかけ、何かを彼女に投げてきた。コントロール良く飛んできたそれを慌てて受け止めて眺めて見ると、ぐしゃりと丸められた紙だった。
――何これ?
ありすは顔を上げて訊こうとしたが、三船はさっさと教室から出ていってしまった。仕方なくありすはその紙を丁寧に広げ、中を見てみると。
『昼休み、美術室に来い』
それだけの簡潔な言葉が三船の字で書かれていた。
――やば、怒られるのかな。
身に覚えはないが、ありすは思わず顔をしかめた。
「みふねっち、何投げてきたの?」
斜め前の愛美が、興味津々と言った面持ちでありすを振り返り訊いてきた。
「何でもない。ただのゴミだよ」
ありすはそう嘘をつくと、カーディガンのポケットにその紙を直した。そうこうしている間に、三船と変わって数学の教師が部屋に入って来た。
お弁当、持って行っていいよね。
今日のお弁当は、ありすが大好きな唐揚げに栗ご飯。まだ今年の栗の収穫には早い時期だ。だから母親が、豊作だった去年の栗を冷凍していたもの。甘みが強くほくほくした栗だ。それを食べ損なっては悲しいので、昼休みは怒られるのを覚悟しながらもお弁当は忘れずに持って行こうと自分に誓った。そうして、ありすも急いで数学の教科書を取り出した。
「よう、ちゃんと来たな。偉いぞ」
昼休み。いつもお弁当を一緒に食べる友人に「用事があるから」と断って、お弁当を手にありすは慌てて美術室に向かった。
美術室は特別教科棟にあるので、授業や部活がない時は静かなのだ。教室に先に入っていた三船は、インスタント麺と珈琲のカップを載せた机の前で、足を組んで座っていた。
「あのー、ボク怒られるんですか?」
「は? いや、俺が怒るようなことしたのか?」
三船の言葉に、ありすは首を横に振った。
「お前が朝話していた夢について、少し気になって話が聞きたかっただけだ。ほら、座って飯食いながら話そう」
思いがけない言葉に、一瞬ありすはぽかんとした表情を浮かべた。しかし怒られないと安心した彼女は、三船の前に座ってお弁当を広げた。
「お、美味そうだな。お前は料理苦手そうだから、お母さんが作ってるのか?」
小柄な女子高生にしては大きめの弁当箱には、栗ご飯に空揚げ、だし巻き玉子に人参の胡麻味噌和え、ウインナーにプチトマトとブロッコリーが、賑やかに美味しそうな色合いで並んでいた。三船の言葉通り、ありすは食べる事は大好きだが料理は苦手だ。
「うん、お母さんがお父さんの分と一緒に毎朝作ってくれてるんだ。先生は――早く結婚しないの?」
「結婚はなぁ――タイミングと、相性だから仕方ない。俺に合う女性と出逢えていないだけだ、まだな」
カレーラーメンの香りも美味しそうだが、もう三十半ばの独身男の寂しい食生活を少し不憫に思った。仕方なくありすは、唐揚げとブロッコリーとだし巻き玉子をお弁当の蓋に載せて分けてあげる。
「くれるのか? 有難うな、黛。お前は良い生徒だなぁ」
「それより先生、私の見る夢って先生に何か心当たりあるの?」
早速ありすがくれただし巻き玉子を頬張った三船に、ありすもウインナーを齧りながら聞いた。
「ああ、それな」
玉子を食べた三船は、不意に真面目な顔になった。そして一瞬だけ、教師ではなく誰かを思い出すような幼く見える表情を浮かべた。そんな三船の様子に、ありすも真面目な顔になる。
「なぁ、黛。お前――前世って信じるか?」
「ぜんせ……?」
三船の言葉に、ありすは瞳を丸くした。
前世――名前は聞いた事があった。「黛ありす」として生まれる魂が、彼女として生まれる前に、「他の誰か」として生きてきたという事だったはず。
身体は滅んでも、魂は何度も生まれ変わる。そんな漫画を見たような気もした。
「俺の友人で、お前みたいに何度も同じ夢を見るやつがいたんだが――どうも、そいつは自分の前世を夢に見ていたそうなんだ。少し長い話になるが、お前のヒントになればと思ってな」
三船はラーメンをすすり、「聞くか?」とありすに尋ねた。彼女は、夢が気になって仕方なかったので、三船の話を聞くだけ聞いてみようと頷いてから唐揚げを齧った。
そこから三船は、ありすの知らない不思議な話を語り始めた。




