1. 二人に賽は投げられた
綾は床に転がっている二つに割れた小皿をぼう然と見下ろしていた。
遠くのざわめきが高波のように押し寄せ、やがてさざなみに音を変えて消えていった。
邸内は新年の宴の準備で、誰もがせわしなく動き回っている。
奥様にお詫びしなければ。でもいったい何とお詫びしたらよいのか。
今宵の宴に出される器は本所に屋敷を構える旗本、夏目家の家宝ばかりであり、細心の注意を払うようにと言われたばかりだったのに。
ふいに綾は、皿を割って井戸に身を投げた女中の話を思い出して身震いした。割れた皿は偶然にも同じ古渡南京であった。
私も井戸に飛び込んでお詫びしなければならないのかしら。
「綾、ちょっといらっしゃいな」
奥方の声に綾の小さな心臓が止まりかけたような気がした。
何も知らない奥方の声はいつもどおりさばさばしているものの、この惨状を目の当たりにすればたちまち鬼と化するであろう。
綾は部屋から出るに出られずおろおろするばかりであった。
「綾、どちらですか」
奥方の急かす声に、綾は「ただいま」と転がるように廊下へ出た。
綾の姿が見えなくなるのと入れ替わるように、今度は一人の男が書状の束を胸に、ひたひたと先ほどの小部屋に近づいてきた。
夏目家の用人、中山三保之介である。
奥部屋と思わしき所から何かが壊れるような音がした。
不審に思い確かめにきたのだが、鉄砲玉のごとく部屋を飛び出した女中の後ろ姿を見送りつつ「どなたかおいでか」と声をかけ引き戸を開ける。
嫌な予感は当たった。
割れた皿を眼下に三保之介は「おお」と声をもらしていた。
この染付けは以前土蔵で見たことがある。
しかも奥方がたいそうお気に入りだったような気がする。
奥方を怒らせてはただでは済まないと、三保之介は重々承知していた。
三保之介は皿の前に膝をつき、しばし考え込んでいたが、懐紙を取り出すと割れた皿を丁寧に包み懐に入れた。そして廊下に出ると主人の部屋に向かって歩き出した。
一方の綾は、いつ割れた皿の話を切り出そうかと目は泳ぎ、上の空で奥方に返事をしていた。
普段の快活さは消え、心ここにあらずといった綾の様子に、奥方はどこか具合が悪いのだろうかと不安になる。
「どうしました。急がねばあっという間にお客様がお見えになりますよ」
綾は言葉に詰まり万事休す、とつばを飲み込む。その時だった。
「夏目先生はおいででしょうか。三保之介にございます」
「お入り」
書き物をしていた長右衛門が筆を走らせながら短く答えた。
「何用か」
「お忙しいところ失礼いたします。火急の件にございまして。これを」
と三保之介は懐から取り出した包みを開き、割れた皿を畳の上に置いた。
「これは、いったい」
奥方のこめかみがひくひくと動いたような気がした。
目の前におのれの不始末を突きつけられ、綾は完全に顔の色を失っていた。
もはや言い逃れができる状況ではなかった。
今度こそ井戸に飛び込んでお詫びするより道はない、と死を覚悟した綾の心とは裏腹に、三保之介の口から出たのは意外な言葉だった。
「申し訳ありません!私が不作法なばかりに」
三保之介はがばりと頭を下げ、流れるような口調で謝罪を繰り返した。
「このような名器にふれることも稀、密かに拝見した際に、あっという間に手を滑らせてしまいました。田舎育ちの身を恥じるばかりにございます。なにとぞお許しいただきたく参上いたしました」
綾はまばたきも忘れ、平服する三保之介に見入っていた。
長右衛門は三保之介のまげをぽかんと見つめ、気の抜けた声で「ああ、それか」と言った。
「気にせずともよい。たかが皿だ」
三保之介は仰々しく表をあげ、目を細めて微笑んだ。
「もったいなきお言葉。二度とこのようなことがないよう、身を引き締めてお仕えさせていただきます」
「何かと思えば、小皿一枚で大げさだ。おぬしも多忙であろう。下がるといい」
そう言い終えると長右衛門はくるりと向きを変え、再び筆を取る。
綾は二人のやりとりをあっ気に取られて見ていた。
まるで何ごともなかったかのように事が収まっている。長右衛門が信頼する三保之介ならでは、であった。
再び頭をさげると三保之介は主人の前を辞した。その間、綾は一言も発することができなかった。
「これを下げてくださいな。怪我をしないよう気をつけてね」
奥方から包みをあずかり、綾は「承知しました」とあたふたしながら夫妻の前を辞した。
そして三保之介を追って廊下に出るが、その姿は既に消えていた。
***
その夜、夏目家は宴でたいそう賑わっていた。客人のほとんどは長右衛門の部下や弟子であり、内輪の無礼講で広間は笑い声が絶えなかった。
太鼓をたたく者あり、歌う者ありで宴客は均等に酔いが回ってきたようである。
長右衛門は三保之介を呼び寄せ、何ごとか耳打ちしていた。困惑しながらも「承知しました」と三保之介は別室へ姿を消した。
勝手方で手伝いをしていた綾の視線の端に、三保之介がちらりと入り込んだ。三保之介を目で追い悶々とするが、思えば個人的に言葉を交わしたことなど一度もなかった。
お礼を言いたいけれど、突然お声をかけたりしたら、はしたないと思われてしまうかも。
悶々とし続ける綾の目の前を、艶やかな蝶を思わせる何かがひらりと駆け抜け、綾はまたもや手にした器を取り落としそうになった。
蝶は、他ならぬ三保之介であった。
綾の目が、背を向けた三保之介に釘付けになる。
三保之介は金銀をちりばめた豪奢な異国の着物をまとっていた。
大胆不敵な笑みを浮かべて宴席に戻る三保之介の背中から、綾は目を逸らせずにいた。
あれは蝦夷錦。
当主の長右衛門が蝦夷に下向したおり、土産として持ち帰った異国の交易品である。
「三保之介、参りました」
「おお、皆楽しみにしていた。剣舞もよいが男ばかり、むさ苦しゅうてかなわん」
壁に掛けられていた鬼の面を長右衛門から手渡され、三保之介は面の下から「では」とくぐもった声を出した。
再び太鼓が鳴り始め、綾よりも若い侍が朗々と歌い出す。
細く開けられたふすまの隙間からひとめ見んと、使用人が集まってきた。
「殿は中山様のあれがお気に入りだからねえ。中山様も嫌な顔一つせず、飲めねえからってああやって気遣いなさる」
下男の重吉が嬉しそうにうなずいていた。
くるりくるりと三保之介が舞うたび、金色の竜の刺繍も三保之介を守護するかのごとく、ふわり、ひらりと体をたなびかせていた。
三保之介の舞は、まさに神の舞であった。
***
綾が夏目家に仕えて一年が経った頃である。兵学家として名高い平山行蔵の門人である三保之介が、用人としてやってきた。
三保之介は槍の名手とうたわれた長右衛門の内弟子であった。
しかし、ある年長右衛門が蝦夷に派遣されることとなり、不在の間、長右衛門の恩師である行蔵に三保之介を預けたという経緯があった。
それから数年が経ち、三保之介は平山道場の師範代として行蔵を支えるまでに成長していた。
江戸に戻った長右衛門は順調に出世を続けたが、やはり三保之介を手元に置きたいと行蔵に頭を下げ、師は快く三保之介を送り出してくれた。
だが、別名「四谷の地獄道場」と世間で言われるほど、行蔵の教えは他流と一線も二線も隔していた。
何もかもが命がけの修行と噂に聞いている。
あの鬼道場の師範代となれば、さぞかし筋骨隆々としたむさ苦しい男なのではと、綾をはじめ他の女中達はげんなりしていた。
しかし夏目家にあらわれた男は、綾の想像と違っていた。
清涼な笑顔を絶やさず気配りに長け、また人を笑顔にするのも得意であり、三保之介の周囲は賑やかであった。
けれど女人禁制を旨とする平山道場の師範代は、一切女人を寄せ付けなかった。
お役目に熱心なのはよいけれど、あれじゃあねえ、と三保之介を崇拝していた女中達は一人減り二人減り、現実に戻っていった。




