最終話 私があなたを捨てた夏
「ベルナール王国に残ってくれないか、ロメーヌ。今さらこんなことを言えた義理でないのはわかっているが、私は……君を愛している」
お兄様によるモーヴェ様の処遇についての手紙を持った女性の騎士が来て、入れ替わりに私を連れ帰ろうという話になったとき、ニコライ陛下がおっしゃいました。
ほんの少しだけ悩んで、私は首を横に振りました。
「そうか。君は私を……」
あの方が濁した言葉の続きがなんだったのか、私にはわかりました。
──君は私を『捨てるんだな』。
おそらくそうおっしゃりたかったのだと思います。
なんだか笑ってしまいます。
二年前十八歳の誕生パーティで、私を捨てたのはニコライ陛下のほうなのに。
とはいえ、それも真実なのでしょう。
今も陛下をお慕いしているつもりでしたが、私は聖獣様のところへ戻ることを選んだのです。
我がボワイエ王国と隣国ベルナール王国の友好を鑑みれば、モーヴェ様の処罰が秘密裏におこなわれることは間違いありません。同じ色の髪と瞳を持つ私なら、彼女に成りすまして居座ることも出来たでしょう。
でも、それは嫌でした。
王女としての自分を殺すことは出来ても、ロメーヌとしての自分を消すのは嫌でした。……憎い恋敵の名前で呼ばれることも。
死せる王女が隣国に嫁ぐことは出来ません。聖獣様のお世話係が隣国へ行ったのは、今回だけの特例です。二度目はありません。
私はニコライ陛下をお慕いしているロメーヌという自分を選んで、陛下ご自身を捨てたのです。いいえ、あの方をお慕いしているロメーヌすら、いつかは捨ててしまうのかもしれません。
二十歳の誕生日は隣国で過ごしているうちに終わっていました。
十八歳の夏に捨てられた私は、二十歳の夏に陛下を捨てたのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ふおおぉぉぉっ!」
聖獣様が息を吐き出します。
迷いの森に帰った私は、聖獣様の月光色の毛並みに櫛を入れてスベスベにした後で、布で耳掃除をしていました。
今夜は隣国土産の干し魚のスープです。私の留守中に近衛兵が持ってきたという干し魚は、帰ったときにはありませんでした。半分食べて半分私に料理させようと思っていたのに、ひと口食べたら止まらなかったそうです。
聖獣様は普通の生き物とは違うので、本来ならなにも食べなくても平気なのですが。
そうやって美食に浸っているから……いえいえ、聖獣様のお腹のことなんて考えていませんよ?
「はい、終わりましたよ」
「ありがとうよ。やっぱりアンタがいると良いねえ」
そう言ってくださると嬉しいです。
欠伸をしながら伸びをしていた聖獣様の三角形の耳が、ぴくりと動きました。
耳掃除を満喫して蕩けていた表情が怪訝そうに歪みます。
「なんだか犬を連れたヤツが来たよ。この前干し魚を持ってきた近衛兵じゃないか」
「犬ですか!」
お兄様が私の誕生祝いを託した訪問者かもしれません。
先日の帰国の際、城に立ち寄ったら、パーティを開かない代わりに贈り物を弾むとおっしゃってくださいましたから。
聖獣様が首を傾げて呟きます。
「なんだってあの男は迷わず真っすぐにこっちへ向かってるんだろうね?」
「え、迷わせるおつもりなんですか?」
「当たり前だろ? なんでアタシの縄張りに犬を入れなきゃいけないんだよ!」
「犬は可愛いですよ?」
そうこう言っているうちに、訪問者が辿り着きました。
聖獣様が近衛兵と言っていた通り、城でもよく見かけた男性です。私の葬儀のとき、ニコライ陛下に付き添ってきた方ではないでしょうか。
訪問者を見て、聖獣様が鼻を鳴らします。
「……なるほどね。この前来たとき、アタシの抜け毛を拾っていってたのかい」
聖獣様はいつもゴロゴロしていらっしゃるので、私が櫛を入れないと綺麗な月光色の毛皮が縺れて毛玉が出来ています。
たまにその毛玉が辺りに落ちているので、この近衛兵はそれを拾っていったのでしょう。
「ひゃんひゃん!」
まだ仔犬といった風情の犬が、聖獣様に駆け寄ります。
犬とか猫とか大きさとかは関係なく、毛むくじゃらの存在はすべて仲間なのでしょう。
犬に飛びつかれて、聖獣様が毛を逆立てました。
「いきなりなんだい!……ああ、もう仕方ないねえ」
「ひゃうーん」
聖獣様は一瞬で陥落して、寄り添って寝転んだ犬の毛並みを舐め始めました。
ご自身のお体は大き過ぎて舌が届かないから、ときどき毛玉が出来てらっしゃるんですよね。……やっぱり体型が肥満気味なのでは?
普通の猫の体型なら、大きくなっても全身を毛繕いできますよねえ?
犬は満足そうな顔です。
乳離れしたばかりで母犬が恋しい年ごろなのでしょうか。
後で私も犬を撫でさせてもらいましょう。
「いらっしゃいませ。よく迷いの森を抜けて来られましたね」
「……ああ、はい。聖獣様のおっしゃった通り、先日来たときに抜け毛をいただいていまして、コイツに匂いを辿らせて来たんです」
「まだ小さいのに優秀な子ですね」
「……」
「あの、どうかなさいましたか?」
「す、すいませんっ! ロ、ロメーヌ王女の御前なので緊張しております」
「……聖獣の前では全然緊張してなかったくせに」
「ひゃう?」
ぼそっと呟いた聖獣様は、犬に見つめられて毛繕いを再開なさいました。
「私はもう、王女ではありませんわ。それにあなたとは城でもよく挨拶しているではありませんか。いつもお兄様……ボワイエ王国の国王陛下を守ってくださってありがとうございます」
「は、はあ……」
男性は顔を真っ赤にして俯き、自分の髪をかき混ぜています。
「そういえば、まだお名前をお聞きしていませんでしたね。私はロメーヌです。王女ではなくて聖獣様のお世話係ですわ」
「し、失礼いたしました! 俺は……わ、私はドニと申します! き、き、今日は良い天気ですね!」
「はい。とても良い天気ですね」
「……ここに来たってことは最初からロメーヌ目当てだろうに、意気地のない男だねえ」
「ひゃうぅ?」
「ああ、もう仕方がないね!」
聖獣様による犬の毛繕いは、なかなか終わらせてもらえないようです。
私の二十歳の夏もまだ終わりません。
案外新しい恋でもして、完全にニコライ陛下のことを捨ててしまうかもしれませんね。そう、この夏が終わり秋が来るころには、もしかしたら──




