第十八話 私は犬が大好きなのです。
「まあ! なんて愛らしいのでしょう!」
今日予定していたお仕事が終わったので、私達は王宮の裏庭にあるニコライ陛下の猟犬小屋へやって来ました。
春夏は動物達の恋の季節です。
お兄様の猟犬と同じで、陛下の猟犬にも子どもが生まれていたのです。母犬に似た白い仔犬が一匹と、茶色い仔犬が三匹です。
おそらく茶色いと予想される父犬はお留守でした。妻子に構い過ぎるので、子育ての邪魔をしないよう軍犬の訓練所に預けられているそうです。
「陛下、触ってもよろしいですか?」
振り返って尋ねると、なぜだかニコライ陛下は不機嫌そうな顔をなさっていました。
カバネル公爵夫人が来たとの報告を受けて、スタン様がいなくなってしまったのを気にしていらっしゃるのでしょうか。生まれてすぐに母后を喪われた陛下は、母君と仲の良いスタン様を見ると複雑な気持ちになられるのかもしれません。
……本当の王妃ではありませんが、元婚約者として陛下をお慰めできないでしょうか。
「ロメーヌ、君が……」
「は、はい! なんでしょうか、陛下」
ニコライ陛下は私から視線を逸らしました。
赤くなった顔を大きな手で覆っておっしゃいます。
「君が一番の笑顔を向けてくれるのは私だと思っていた。……いや、すまない。ただの自惚れだ。犬に嫉妬するなんて、我ながら情けない」
私が犬を好きなことはお話していましたけれど、実際に陛下の前で犬と過ごしたことはありません。
陛下がボワイエ王国をご訪問なさるのは、年に一度の私の誕生パーティだけだったのですもの。パーティの主役が会場を抜け出して犬と遊びに行くわけにはいきません。
だから犬といる私を陛下にお見せするのは初めて──嫉妬?
「ああ、すまない。仔犬に触れてもかまわないよ。母犬がおとなしいからね。どうやら彼女も君を気に入ったようだ」
嫉妬という言葉に驚いて陛下を見つめていたのを仔犬への接触許可が出るのを待っているのだと思われたようです。
真実を説明するのも恥ずかしかったので、私は陛下に背を向けてしゃがみ込み、仔犬達へ手を伸ばしました。
陛下が私のことでだれかに嫉妬するだなんて……喜びで顔が火照ります。今の状況が異常なだけだとわかっていても、嬉しいものは嬉しいのです。
「ひゃんひゃん」「ひゃふひゃふ」「ひゃうひゃう」「ひゃっふー」
私が撫でると、仔犬達は小さな体を擦り付けてきました。
どの仔犬もふわふわのモフモフです。
白い母犬が自慢げな顔で私を見ています。
「ニコライ陛下、母犬も撫でてよろしいですか?」
「かまわないよ」
そう言いながら陛下が私の隣にしゃがみ込みます。
肩が触れて、心臓が跳ね上がりました。
こっそり呼吸を整えて、母犬の頭へ手を伸ばします。
「可愛い仔犬達ですね。いつも陛下のためにありがとうございます」
「……」
視線を感じて隣を見ると、ニコライ陛下はなんだかとても幸せそうな顔で私達を見ていました。
この白い母犬は、猟の途中で現れた魔獣を退治したこともあると聞いています。
母犬にとって可愛い仔犬が自慢なように、陛下にとってもこの優秀な猟犬がご自慢なのでしょう。陛下を幸せそうな顔にした白い犬に嫉妬してしまいました。うふふ、ふたりして犬に嫉妬してお揃いですね。
「失礼いたします。陛下、ロメーヌ姫、少しよろしいでしょうか」
スタン様の声がして、私達は立ち上がりました。
母君とのお話は終わったのでしょうか。
彼の手には革表紙の日記帳のようなものがあります。
「なんだ、スタン。カバネル公爵夫人がおいでなのだろう? 今日の仕事は終わっているのだし、自室でゆっくりすればいいのに」
スタン様は王宮にお部屋をいただいています。
それと、と言って、ニコライ陛下は眉間に皺を寄せました。
「さっき執務室でも指摘させてもらったが、君はなぜロメーヌを姫と呼ぶんだ? 妃殿下と呼んでくれ。彼女は私の妻、ベルナールの王妃なんだ。そうでなくても君はロメーヌを見つめ過ぎだ。……心の狭い私は怪しんでしまう。ロメーヌと君がふたりきりで聖獣様の森へ行ったというだけで、嫉妬が抑えられないんだ」
ニコライ陛下の中では、夏風邪で寝込んだ陛下のために私とスタン様が聖獣様の助けを借りに行ったということになっていらっしゃるようです。
「そうでなくても、あの日モーヴェが君の名を……モーヴェ? モーヴェとはだれだ?」
「陛下?」
ご自分のお言葉に首を傾げた陛下の瞳から、光が消えました。
「いや、待て。スタンのはずがない。君は執務室に残って私を見送ってくれた。先回りしてまで私に不貞を見せつける必要がない」
どこを見ているとも知れない瞳で、陛下は呟き続けます。
「ほかにスタンと言えば……モーヴェの不貞相手はカバネル公爵だったのか? 顔は見なかった。ああ、モーヴェ! モーヴェは私の妻、ベルナールの王妃だ。……では、ロメーヌは?」
──私は、あなたに捨てられた元婚約者です。
ニコライ陛下に見つめられて、私は微笑みを返しました。
絶望に染まった顔を両手で覆い、崩れ落ちそうになった陛下をスタン様が支えます。
「陛下。ついに母が父に見切りをつけて、父の日記を持ってきてくれました。ここに父の計画のすべてが書かれています。……あの女を使って陛下を篭絡したことも、すべて……」
「……そうか」
力なく頷いて、ニコライ陛下は自分の力で立ち上がりました。
記憶を取り戻されたのでしょう。
私だけが幸せだった異常な状況は終わりました。死せる王女は聖獣様の森へ帰らなくてはなりません。……干し魚を持って。




