第十六話 私の名前を呼ぶあなた
「ロメーヌ!」
執務室の扉を開けると、机に向かわれていたニコライ陛下が立ち上がって駆け寄って来ました。
「お帰り、ロメーヌ」
微笑んで、陛下は私が持っていたお盆を持ってくださいました。
少し驚いたような顔をなさいます。
「お茶を載せた盆は結構重いんだな。いつも持ってきてもらったものを茶器で飲むだけだったから気づかなかったよ。三人分の茶器が載っているから重かっただろう。執務室に余計なものがいて、すまなかったね」
ニコライ陛下に余計なものと言われて、机の横に立っていたスタン様が眉根を寄せます。
「陛下は病み上がりなのですから、いつまた体調を崩されるかわかりません。その無駄に大きな図体をロメーヌ姫に運ばせるおつもりですか?」
「無駄に大きいとはなんだ。自分こそ私より大きいくせに」
「僕は背が高いだけで、横幅は陛下に負けております」
「私の横幅がスタンに勝っているのは鍛えているからだよ。早く本調子を取り戻して軍の訓練に参加したいな。体が元気になったら狩猟大会を開こうか。……ロメーヌ」
スタン様と軽口を叩いていた陛下が、私を見て微笑みます。
「は、はい」
「君は犬が好きだったね。今日の仕事が終わったら、私の猟犬を見せてあげよう。ボワイエの国王陛下がお飼いの猟犬に勝るとも劣らない名犬揃いだよ。狩猟大会で気に入った犬がいたら、結婚祝いに譲ってもらってもいいかもしれない」
「……陛下」
返答に困っている私に、スタン様が助け舟を出してくださいます。
「浮かれてもう一度ぶっ倒れる前に、溜まっているお仕事を片付けていただけませんか?」
「ぐっ……」
狼狽えるニコライ陛下に、スタン様は澄ました顔で言いました。
「溜まったお仕事を片付けるためにも、ロメーヌ姫が淹れてくださったお茶を飲んでひと休みしなくてはなりませんね」
「ああ!」
執務室の隅にある休憩用のテーブルにお盆を置いて、陛下はスタン様を睨みました。
「……それはそうとスタン。ロメーヌをなぜ姫と呼ぶんだ。呼ぶのなら妃殿下だろう。彼女は私の妻なのだから」
スタン様は答えず、しれっとした顔でソファに腰かけました。
「お茶菓子も用意してくださったんですね。美味しそうだなあ。さあ、陛下も座って」
「……そうだな。さあ、ロメーヌ、君も私の隣に」
「は、はい」
聖獣様の聖珠のお力で、十日前まで生死の境を彷徨っていたのが嘘だったかのように、ニコライ陛下はお元気になられました。
民の前に出たり軍の訓練に参加したりするような公務は大事を取ってお休みされているのですけれど、書類仕事は普段通り、いいえ、普段よりも大量にこなしているとスタン様がおっしゃっています。僭越ながら私も補佐をさせていただいています。
ですが問題がひとつ──陛下はなぜかモーヴェ様のことを忘れて、私が王妃だと思い込んでいらっしゃるのです。
私の気持ちを察した聖獣様が聖珠に細工をしたわけではないと思います。
昨日もお義姉様の代筆で、とっとと帰ってきて毛皮に櫛をかけろ、私がいない間に来た近衛兵が持ってきた干し魚を調理しろ、という手紙が届きました。
スタン様が持ってきてくださった大きな鳥の丸焼きは、とっくの昔にたぷたぷのお腹に収まっているのでしょう。
国王であるお兄様からも手紙をいただいています。
お兄様は、私の好きなようにすれば良いとおっしゃってくださいました。
聖獣様を黙らせるためなら迷いの森に溜め池を作って、ベルナール王国の海から魚を輸送して飼育するとのことです。
「ロメーヌの淹れてくれたお茶は美味しいな」
「お茶菓子も美味しいです」
「ひとりで食うなよ、スタン」
「こういうのは早い者勝ちですよ、陛下」
「君も早くお食べ、ロメーヌ。せっかく作ってくれたのに、このままじゃ全部スタンに食べられてしまうぞ」
「は、はい」
さっきから同じ言葉ばかり返しているような気がします。
どう反応したら良いかわからないのです。
ニコライ陛下に妻として扱っていただけるのは嬉しいです。夫としての陛下は毎年の誕生パーティで会っていたときよりも優しくて、くだけた感じです。心を許してくださっているようでとても幸せな気分になります。
でも──これは一時的な記憶の混乱、なのだと思います。
聖獣様にも問い合わせたのですが『アタシは知らないよ、本人が現実から逃げたかったんじゃないのかい?』と言われてしまいました。
少なくともお義姉様からの返信にはそう書いてありました。
ずっと陛下の記憶が戻らなかったとしても、このまま私が王妃になるわけにはいきません。
私はもう、死人なのですから。




