第四十三話『人間ではなくなったヒトと人間離れした人間』―5
深叉冴は翔と寒太の胸元に手を置いて、
「今更だが、怖くはないのか?」
「何が?」
翔は質問の意味が分からないのか、首を傾けて瞬きをした。
「要するに、寒太という存在は消え、今まで翔として過ごしてきたお主の中に寒太という存在が融合し、今までの翔は中身だけ別の存在に――」
「長い。ややこしい。うるさい」
『ほら、お前も短気じゃねーか』
茶化す寒太に、翔はむぅと下膨れる。
「『怖い』とかじゃない。今までの俺が俺じゃなかったって事は、俺の存在自体が嘘みたいなものでしょ? 俺、嘘は嫌いなんだ。それに、忘れてた色んな事を思い出せるかもしれないし」
その中には、初めて光と出会った時の事も含まれている。翔は未だに、何故光が自分に執着しているのか分からないでいた。出来る事なら思い出したい。
深叉冴は寒太にも視線を送るが、残念ながら、鳥の表情など分からない。
「……そうか。少しビリッとするやもしれぬが、我慢してくれ」
そう言うと、深叉冴は静かに翔と寒太に手のひらをあてがい、円を描くように撫でた。同時に、寒太の体から帯状の光りが出現し、翔の体へ入っていく。
光りが完全に翔の体内へ消えると、寒太の体は灰のようになり、空気中へ消えた。
「なんだ。呪文とかないのか」
とは、一連の様子を眺めていた倫の言葉だ。
深叉冴は静かに息を吐き、苦笑した。
「まぁ、何かしら唱えた方が様にはなるだろうが……自分自身の力を使う場合には、そんなものは必要ないからのう」
「あー、ファンタジーでよく見る詠唱って、何かの力を借りる場合に唱える事が多いですもんね」
「自身の力を使う時に発する声なんて、あっても掛け声くらいのものだな」
呪文云々という件に心当たりでもあったのか、潤もぽつりと呟いた。
「って、ねぇ、ちょっと! 俺の事は無視なわけ? 過程じゃなくて結果を見てよ!」
数分前と寸分違わぬ姿の翔が、プリプリと怒っている。声量は以前より増していた。
倫は肩を竦める。
「だってさ、見た目が何も変わらないんだもん。折角完全体になったんだから、もっとイケメンになるとかないのかなぁ? 相変わらず顔が丸くて鼻が低いよ?」
「余計なお世話だよ!」
「翔! 翔! 調子はどうだ!? 気持ち悪くなったりはしておらぬか!?」
ハラハラと汗を飛ばしている深叉冴に、翔はにこりと笑いかけた。
硬直した深叉冴の体を抱きしめ、
「父さん大好き!」
数秒間、沈黙が流れた。
固まって動かなかった深叉冴が徐々に震えだし、またしても滝のような涙を流し始めた。
「か、翔が! 翔がついに本心を!!」
「嘘だけど」
「嘘は嫌いではなかったのか!?」
感動で打ち震えていたというのに打ち砕かれ、涙は意味を変えてまだ流れている。
「父さんを一瞬だけ幸せにする、優しい嘘だよ」
「一瞬の幸せの後に瀕死を負う程の絶望が待っておったわ!」
「ははははは」
けたけたと笑う様子から、確かに以前の翔とは違うのだと受け取れる。翔しか知らないが、寒太はよく笑っていた。
「で、翔はどう? 思い出したい事、思い出せた?」
倫は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すとコップへ注ぎ、翔へ渡した。それを美味しそうに飲んでいるので、味覚や味の好みは変わっていないのだと伺える。
ただ、やはり表情の変化は著しいものがある。
(寒太って全く表情分からなかったけど、人間だったら表情豊かだったのかな)
倫はそんな事を思いながら、空になったコップを受け取った。
「元に戻ってからまだ間もないし、情報量が多すぎて俺にもよく分からないんだよね」
倫の質問に答えて、翔は伸びをした。爽やかで晴れやかな表情で。
「あー、でもなんか、スッキリした! 気持ちいい気がする! 誰でもいいから抱きつきたい気分だな!」
「さっき深叉冴さんに抱き付いてたじゃん」
「あれはノーカン」
倫の指摘にソッコーで答えた翔が飛び付いたのは、潤だった。
「何で潤さんなの……」
「だって、倫は何となく嫌がりそうだし」
「へぇ。よく分かってるね」
微動だにせずほうじ茶を啜っている潤を挟んで、翔と倫は顔を見合わせて笑っている。
「俺、潤の事好きだよ。こういうの同族嫌悪とか言う人居るけど、俺にとっては貴重な仲間なんだよね」
「好いてくれるのはいいんだが、翔の訓練も目標まで達成したから、俺の仕事は終わりだな。後は凌に任せて、俺はもう東京へ帰る」
「え……。九州の《天神と虎》っていう奴らを潰すまで一緒じゃないの?」
翔が敵組織の名前を覚えている事に感動している深叉冴は無視し、会話は続く。
「……俺への依頼はあくまで、翔が力を制御出来るまで指導するよう――」
「ヤだ!」
「嫌と言われても……」
ちらちらと深叉冴と倫へ交互に視線を飛ばすも、助け船はない。
潤は諦めの溜め息を吐き出すと、翔の頭に手を置いた。
「分かった。今晩はまだ泊まる。光さんの安否も気になるし、ウチの尚巳も――」
「そうであった!!」
深叉冴は黒ひげ危機一髪の如く飛び跳ねた。
どうしたものかと視線が集まる。
「『尚巳君は黒猫になっているが無事だ』と光君が言っておったのだ!」
言付けられた事をしっかりはっきり伝えた深叉冴だったが……何故か冷たい視線が全身に突き刺さった。




