第四十話『鳥の子』―1
真っ赤に燃えている太陽が、山脈の向こうへ隠れるかどうかという頃。
神奈川県横浜市、某所――天馬家。
敷地の中心に日本家屋が鎮座し、そこから廊下で繋がった離れがくっついている。その周りは、ほぼ庭。四季を感じられるように様々な樹木が植えられている。それゆえに落ち葉がすごい量になりそうなものだが、薄茶色の地面や鈍色の飛び石などがしっかりと地面を彩っている様子から、マメに掃除がされている事が伺えた。
そんな天馬邸だが、この日本庭園に似つかわしくないプレハブ小屋が、ちょこんと存在している。
その中。
家主である天馬翔は禁刀の先を地面に突き刺し、杖代わりにして立っていた。立っている、というより、しゃがんでいる、といった方が近い体勢で。息をきらせて。
「もーいっかい」
黄褐色の髪が、呼吸に合わせて上下する。登頂部からは、一束の触角のような毛が弧を描いて伸びていて、それも合わせてみょんみょんと揺れていた。
前髪の束の隙間からは、血のように赤い瞳が覗いている。
「体の損傷がすぐに治るとはいえ、少し休め。どうしてもと言うなら、五分の水分補給を挟んで再開だ」
家庭教師をしている潤が翔に、少量の塩と、蜂蜜と檸檬と水の入ったペットボトルを渡した。
潤の瞳は、翔のものよりピンクに近い紅い瞳をしている。性別を間違えて生まれてきたのではないかと疑われるような、女がハンカチを噛みしめて羨む美貌ではあるが、左目に“人”のような傷があった。
十二天将・朱雀の“子ども”である翔同様、十二天将・騰蛇の遺伝子を体内に持つ存在だ。ただし、潤は人間の両親から生まれていて、騰蛇の力を得たのは後天的なものである。――という話を、翔は潤から聞いている。
母屋の縁側へ二人並んで腰掛け、翔はペットボトルの蓋を捻った。
「ねぇ、潤。俺、ちゃんと出来てる?」
肝心な部分の抜けた質問に対し、潤は小さく頷く。
「翔は運動に関しては体の扱いがまだ完全ではないが、炎の扱いについてはかなり上達していると思うぞ」
光が行方不明となってから、丸一日。その間、訓練に対する翔の姿勢は一変していた。
というより、集中力が増したのだ。
普通、許嫁が所在不明になれば取り乱しそうなものだが、翔は逆だった。
潤に『今のお前がしなければならないのは、出来る限り力の制御が出来るようになる事だ』と言われてからは、光探しは他を信用して任せ、自分はとにかく力の精度を上げる事だけを考えた。
結果――、
「ライター」
と潤が言えば、人差し指の先から、二センチ程の雫型をした青い火が出せるようになったし、
「キャンプファイヤー」
と、翔の分かる表現で言われれば、人が二人は入れそうなくらい大きな青い炎を出せるようになった。
一番の進歩は、目標物がなければ出現の定まらなかった火が、何もない場所へ発生させられるようになった事だ。焦りは時として人を失敗へ貶めるが、翔にとっては起爆剤となったようだ。
(生まれながらにして発火能力を持っている翔は、一度コツさえ掴めば案外器用に力を使いこなせるのかもしれないな。自転車に乗るようなもので)
最初はどうなる事かと思っていた潤だったが、生徒の進歩に胸を撫で下ろす気持ちでいる。
翔は甘酸っぱい水を半分胃に流し込むと、ペットボトルの蓋を閉めながら言った。
「潤は、俺の父さんに会った時……どう思った?」
全く予想していなかった問いを投げ掛けられ、潤は「どう……?」と首を傾げる。翔の持ち掛ける話題は、突飛なものが多い。
「えぇっと、ほら、話してみた印象……とか、感想? みたいな……」
「そういう事なら……、とても賑やかで明るい方だと思ったな」
いつも眠そうな翔の目が、少し大きくなった。興奮気味に、潤との間を詰める。
「そう。そうなんだ。父さんは賑やかで明るくて楽しくて優しかったんだ」
「?」
「今の父さんも、賑やかで明るくて楽しくて優しい。昔の俺の事も知ってる。……けど……」
そこまで聞いて、潤は雅弥に見せられた三枚の写真を思い出した。一枚は翔、後の二枚は深叉冴の顔写真。生前の深叉冴は、茶髪で――年上にこんな事を思うのも無礼かもしれないが――可愛らしい童顔で、猫のような口をした……今の姿とは全く違う見た目だった。
「俺……今の父さんは、本当に俺の父さんなのかなって、思う時があって……」
そういう事か、と潤は再び、翔の言わんとしている事を察する。
「『沼の男』という話がある」
翔は、潤の言いたい事が分からず眉根を寄せた。
「沼の近くで、落雷に当たって即死した男がいた。だが、同時に別の雷が沼に落ちた。その落雷は沼の泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同じ、同質形状の生成物を生み出す。姿形は勿論、記憶や知識までな。そして、沼から生まれた男は、落雷によって死んだ男として、その後も生活する……という話だ」
「へぇ……。で、結局、その沼から生まれた男は何なの?」
「そこが論点となる所だな。翔はどう思う?」
翔は黙る。少し考え、
「死んだのと同じ人……かな」
と、自信なさげに答えた。
「じゃあ、沼の男の見た目が、別人だったら? 例えば、泥人形のような見た目だったら、どう思う?」
翔は再び黙った。
数分待っても返事がないので、潤は随分暗くなった空を見上げ、
「俺は……」
ぽつりと、水面に木の葉が落ちるように言った。
「他の誰かが『そうだ』と言えば、泥でも人になれると思う」
言ってから、潤は、いや、と続けた。視線を翔へ向けて。
「『思いたい』のかもしれないな。自分が何者かなんて、自分では存外分からないものだ。誰かが人間だと言ってくれれば……、こんな俺でも、人間でいられる」
「そっか。潤って元々普通の人間だったんだもんね」
空気が読めていないと咎められそうな翔の発言も、潤にとっては、腫れ物に触るように扱われるよりは心地のいいものだった。
俺とは違うもんね、と呟く翔に、潤は違う質問をしてみる。
「翔は、どうなりたい?」
翔は少し顔に力を入れて、唸った。少しして、翔はいつもの何を考えているのか分からない表情へと戻る。
「俺は別に、人間になりたいわけじゃないんだ……。でも、…………」
考えをまとめているのか、言葉の出ない翔を、潤はじっと待つ。
「俺は、人間と一緒に暮らしたいな……とは、思う。あ、それでね、光と仲直りして、高校卒業したらちゃんと結婚もしたいな」
後半は捲し立てるように自分の考えを告白する翔に、潤は思わず吹き出した。
翔は笑われた事に対して「ひどくない?」と頬を膨らませる。
潤は笑みを含んだまま、軽く謝罪。
「悪い。馬鹿にしたわけではなくて、羨ましいと思って」
翔も、貶されたわけではない事が分かり頬の力を抜いた。
「翔、もうひとつ……」
潤は息を吐き出すと、翔の深く赤い瞳を見て、言葉を紡ぐ。
「深叉冴さんは“沼の男”だ。福岡に現れたカマキリ男も、俺は“沼の男”だと思っている」
「父さんは分かるけど、カマキリ男は悪い奴でしょ?」
「人としての自我があれば、俺は人として見る。だが、人に危害を加えた時点で悪になる。俺の感覚からすると、射殺は当然の事だった」
潤の言葉の真意が分からず、翔の頭上には疑問符が乱舞している。
「人を簡単に殺める事の出来る力を持っているからこそ、俺は私情で人を殺しはしない。同じように、翔に無差別殺人をさせない為に、俺はここに居る」
翔の脳裏に、父親とその仕事仲間だった人物たちの顔が浮かんだ。その中には、凌の父親も含まれている。
「もう、関係のない人を巻き込むなよ」
触覚を避けて、翔の頭に手をポンと一度置き、潤は立ち上がった。




