第9話 (最終話) 仁風は、怖さを越える
数ヶ月後。
夕方六時。
スナックの灯りが、いちばん最初につく。
それはもう「営業開始」の合図ではない。
この町にとっては、
今日も一日が終わったという合図だ。
ドアは開いている。
誰かが来ても、来なくてもいい。
昔は、怯えた顔が集まった。
怒りを飲み込んだ声が溜まった。
泣いて、歌って、吐き出して、
それでも帰れなかった夜があった。
今は、ただ人が座る。
仕事の話。
失敗の話。
明日の天気。
それだけで、十分だった。
若者が、夜道を歩く。
一人じゃない。
でも、群れてもいない。
コンビニまでの距離。
駅までの一本道。
以前は「考える時間」だった場所が、
今は「何も考えない時間」になっている。
それが、どれほど贅沢なことかを、
彼らはまだ知らない。
診療所。
午後最後の患者が帰り、
さっちゃんは、白衣を脱ぐ。
棚には、
使われなかった包帯。
期限切れになった消毒液。
(使われないのは、いいことだ。)
カルテを閉じる指先は、
以前より、少しだけ遅い。
急がなくなった。
この町が、
「今すぐ何かを失う」場所ではなくなったから。
夜。
スナックのカウンターで、
鷹宮がグラスを磨いている。
同じ動作を、何度も。
必要以上に。
「……勝った、って感じじゃないな」
独り言のように、そう言う。
さっちゃんは、少し考えてから答える。
「勝たなかったんだと思います」
「ほう」
「選ばなかったんです。支配も、暴力も」
鷹宮は、ふっと笑う。
「元市長としては、 それがいちばん難しい」
グラスを置く音が、静かに響く。
「命令しない町は、
管理できない。
でも生き残る」
さっちゃん
「町は、治らない。
古い建物も、
不器用な人も、
消えない傷も、そのまま。
でも、 怖さを感じたとき、
どうするかは、選べる」
逃げるか。
殴るか。
黙るか。
それとも誰かの隣に立つか。
「強さって、 勇敢さじゃない。
続けることだ」
外では、
夜の見回りが、角を曲がる。
懐中電灯も、武器もない。
ただ、歩いている。
「今日も何もなかったな」
「それでいい」
足音が、遠ざかる。
風が吹く。
かつては、
噂を運び、
恐怖を煽り、
逃げ道を塞ぐ風だった。
今は違う。
人と人のあいだを、
静かに通り抜ける。
仁風。
それは、怖さを消す風じゃない。
怖さを、越えていく風だ。
翌朝。
町は、
特別な顔をしていない。
それでいい。
守られた町じゃない。
守り合うことを、選び続ける町。
さっちゃんは、
今日も診療所のドアを開ける。
「おはようございます」
それが、この町の答えだった。
『仁風、町に吹く3 ― さっちゃん先生 マフィア編』
—完—




