第六話 夜襲しました。
夜襲とは、夜眠って休んでいる相手にまっくらな森の中などから
不意を突いて襲いかかる戦法である。
古来からある戦法で卑怯な戦法だと嫌う武将も多い
単純だが確実に相手にダメージを与えられる。
(石田三成は再三、島左近から夜襲の進言があったが
名分にこだわっていたのか受け入れられずに終わった。)
僕は好きですよ夜襲、第二次世界大戦では日本軍が得意とした。
銃弾を撃たず、銃剣突撃で近距離から剣で刺していった。
なぜなら撃つと居る場所がばれてしまうからであります。
しかしレーダーの発達などにより日本兵は夜襲により多くの命を落とした。
ということで
クロスボウガン部隊と人力槍衾部隊の出番です。
人力槍衾は解体され現地で組み立てます。
宮本武蔵が足軽兵に夜襲の極意をおしえていた。
「よいか、先のものが先導して安全であれば手で招いて後続の部隊が
つづくのじゃ」
「同志討ちをさけるため、差している刀に布を巻く【刀印】
槍の穂先の根本に垂らす【槍印】鎧や足軽の陣笠に付ける【笠印】
さぁ皆印をつけろ!」
(へぇー為になるなぁ。宮本武蔵は吉岡流の人に寝込みを襲われたって
いう話あるけど、あれって、もしかして逆なんでは・・・)
◇◇◇
僕は徳川家康の本陣である安楽寺を目指して
真っ暗の中、関ヶ原の囲まれた山の中を進みます。
しかも小雨が降ってきました。寒い。
僕は長宗我部盛親くんと一緒に歩いてます。
「お父様とは(長宗我部元親)鷹狩りをしましたよ」
「父は昨年なくなりました。
末っ子の私を後継ぎに選んだ事により家督相続争いになり
多くの家臣がなくなりました。」
長宗我部元親は長男が戦死したことにより
次男 三男がいたのにも関わらず四男の長宗我部盛親を後継ぎに
しました。そして反対するものを許さなかったそうです。
家督争いか
僕は竹千代(息子)の事を思い出した。
姉川の戦い前に産まれたので30年も前か。
生きているのだろうか・・
(長宗我部盛親は歴史では関ヶ原の戦いでは何もせず帰ってしまいます。
徳川に味方をしようとして手紙を送ったのですが関所の検問に
ひっかってしまったので仕方なく僕の味方をしてるわけです。
そして長宗我部家は大阪の陣で東軍に負けたあとお家お取りつぶし
に・・・いつやるの?今でしょ!)
山の上のお寺が見えてきました。
何人か見張りのものがいますが
2000人ほどで襲いかかります。
「よーし、かかれぇ!」
人力槍衾部隊を先頭にクロスボウ部隊が後方から弓矢の雨をふらして
長宗我部軍 島津軍 小早川軍が続きました。
不意を突かれた徳川本陣は慌てふためきます。
「敵の襲撃だ!松明をよこせ!見えないー」
人間の目は夜になると視力が著しく低下し衰えます。
一般的に暗闇に慣れるには30分かかります。
次々と徳川の軍は槍や刀で刺し殺され倒れていった。
◇◇◇
安楽寺で休んていた徳川家康へ
使者が夜襲を告げると、
徳川家康は急いで鎧、兜をつけ始めた。
「家長はおるか!わしは後方へ下がる。時を稼げ」
「御意」
「お前を捨てた親じゃ。今こそ積年の恨みをはらすがよい!」
「血走りの軍!今から神君家康公を動かす。」
鋼鉄の兜と鎧に全身覆われ
盾とランス状の槍を持っている。(血走りの軍団)
徳川 家長の軍1000名が安楽寺の山の頂上から
松明に照らされ僕達の軍を見下ろしていた。
徳川家長(竹千代)は歴史には登場しない架空の人物です。
血走りの軍団は、軍団が通った後は血が走った後のように
なるイメージから名づけました。
西洋の鋼鉄の鎧 兜をつけた重装兵の部隊です。




