第四話 援軍が間に合いませんでした。
関ヶ原の地に到着した、東軍総大将 徳川家康はイライラしていた。
息子、徳川秀忠に預けた援軍38000人と合流予定の時刻に現れなかった為だ。
「秀忠は何をしておる!使者は戻ってこぬのか!」
申し上げます。
「雨で河が氾濫しており、使者の到着が遅れているとの事でございます。」
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(第二次上田合戦)
その頃、徳川秀忠の軍勢38000人は上田城に籠城する
真田昌幸、幸村軍2000人を攻撃しようとしていた。
短期決戦を望むため、城下の稲を刈り取る戦法に出た。
稲を刈り取って食料を無くす作戦である。
徳川方の狙い通り、真田軍が城門を開け稲刈り
を阻止しようと出てきた。そこへ伏兵していた本多忠政(忠勝の息子)
が襲いかっかた。真田軍はあっさり敗走した。
本多の追撃隊は上田城の大手門戸まで迫った。
しかしこれは全て、真田昌幸の罠であった。
突如、門戸は開門された。
門戸の中に整列し待ち構えていた鉄砲隊が一斉に射撃、
さらに城内からも射撃の雨が降り注いだ。
徳川勢は大混乱に陥いった。真田の首を上げようと功を焦ったため。
追撃隊は本隊と分離。逃げる先陣隊と後ろから来た後続隊が鉢合わせとなり
衝突した。
そこへ追いかけてきた真田軍が追い討ち徳川の軍は散り敗走した。
さらに真田昌幸は、前日の夜に200人を城からこっそり出し。
秀忠の本陣に潜ませていました。秀忠の本陣へ奇襲、
鉄砲隊が一斉に射撃。浮足だった秀忠本陣に雪崩れ込みます。
秀忠自身は家臣に馬を与えられかろうじて小諸に逃れた。
しかし、昌幸の罠はこれだけではなかったのです。
神川の上流に堤防を築き神川をせき止めていました。
合図で堤防が壊されると河の水は濁流となり逃げる秀忠の
人馬もろとも、徳川秀忠の軍勢は飲み込まれていきました。
第二次上田合戦は、わずか1日で真田軍の大勝利に終わる。
◇◇◇
このときの惨敗ぶりを、
「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成績』)と記されている
徳川秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、
上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにします。
しかも道中の悪天候も災いして、
関ヶ原の戦い当日に間に合いませんでした。
この失態に徳川家康は激怒し、
徳川秀忠にし3日間は対面することすら許さなかったと言われている。
◇◇◇
徳川家康は側近中の側近である
東軍の作戦参謀である本多忠勝を呼び出していた。
「大垣城は目と鼻の先であるが川と沼に囲まれている
攻めるのは苦労とみえる」
「水攻めでは如何でしょうか、しかし
日にちをかけるのも得策ではござらんな。」
「毛利輝元が出陣となると秀吉子飼いの福島や黒田がどう動くか問題かと
また大垣城を攻めれば毛利輝元、長宗我部盛親が脇から攻めてくるにちがいありません。」
「南宮山の吉川広家、には毛利兵を動かさないよう申しつけております。
さすれば毛利の罪は問わず所領も保証いたす約束を取り付けました」
「大垣城を攻めれば動きましょうが、見えない所なら兵を動かさないに
違いありません。」
「見えない所とは」
「関ヶ原でございます。」
「しかし関ヶ原は中田玄白により陣をはられておるではないか関ヶ原に
入るは敵のふところに入るようなものではないか」
「敵のふところに、燻りをつくっております。」
「くすぶりとは」
「小早川秀秋殿でございます。小さな燻りもやがて大きな
火種となり燃えさかる事でしょう。」
「あの小僧が本当に我が方につくのか、小早川秀秋が裏切らなければ
わしも危うい」
「勝負わかれめは小早川秀秋の裏切り次第かと」
「うむ・・・それだけでは」
「また西軍将軍の中には中田殿に恭順しめしているふりをしている者もいます。
実際は全て思い通りに動くかと云われれば難しいでしょう。
西軍のおよそ半数は疑心暗鬼といったところでしょう。」
「かけに出るか!」
徳川家康は関ヶ原に出陣を指示した。
【疑心暗鬼】
「疑心」は疑う心。「暗鬼」は暗闇の中の亡霊の意味
疑いの心があると、なんでもないことでも怖いと思ったり、
いもしない暗闇の亡霊が目に浮かんでくる
疑いの深さから、いらぬ妄想にとりつかれる仏教用語




