第六話 戦乱へ動き出しました。
「上杉景勝に謀反の疑いあり、上杉家を討伐する。」
徳川家康が大阪城から、会津の上杉征伐へ大軍を率いて出陣します。
会津征伐(会津攻め)
このため大阪城は徳川の勢力が一時的にいなくなりました。
僕は石田三成と共に、小西行長や毛利輝元や増田長盛などと
内府のちかひ(違い)条々 13か条を結び反家康派閥として
徳川家康を糾弾。家康討伐の為、関ヶ原へ集まる条約をした。
毛利輝元が中国地方の関所を封鎖、
西側の諸国が徳川の軍に加勢できないようにした。
さらに大阪城にいる家康側武将の家族を人質にして戦いに
参加しないよう画策します。
そして次の日に徳川軍の駐留している伏見城を攻撃。
伏見城にいた1800名の守備隊は反徳川の1万の兵により
城は炎上、城主、鳥居元忠は戦死します。
この知らせを聞いた徳川家康は急いで兵まとめて帰還。
京都の小山という場所で徳川勢の武将達と会議をします。
(小山評定)
小山評定の軍議場で重苦しい空気の中、徳川家康は口を開いた。
「おのおの方の妻子は大阪にとられているゆえ、さぞ心配であろう、
されば速やかにこの陣を去り、大阪に戻られ、中田側(西軍)に味方
しようと、わしは、いささかもおのおのの行動に恨みにおもわぬ。
我ら領内においては、行動の心配もいらぬ、心おきなく上板せよ!」
と述べ、それぞれの武将達に委ねました。
これに対し、福山正則が
「残してきた妻子を犠牲にしてでも中田殿を討つ!
最後まで徳川殿に付き添い戦い申す」
と気勢を上げます。
すると他の武将達もそれに続き、徳川家康は
ニンマリと笑みを浮かべた。
しかし、その中の武将で田中昌丸という武将がおり、
一人で家康に向かって、こういいのけます。
「中田ごときが家康様に刃向かうなど笑止千万でございますが、
私は石田三成殿に恩義があるため、お味方には慣れませぬ。」
と家康の前で空気の読めない発言した。
田中昌丸は蒲生氏郷の妹婿で石田三成の推挙で
4万石の大名となった。
屋敷は静まり返った。
田中昌丸は帰り支度を始めた。
すると徳川家康は
「待て、待たぬか!」
といい屋敷を去ろうとする田中昌丸に
「最後はなむけじゃ、もっていくがよい」
自分の刀を放り投げた。
全国の戦国大名を巻き込んだ天下の大勝負、
【関ヶ原の戦い】
間もなく、開戦される。




