兎穴へ
空は青く高く、まぶしい春の日差しを、おしみなく降り注いでいた。
花々が咲きほこる野原で、大きな樫の木を、涙目で見上げていた、小さなシャーロット。
『どうしたの?』
優しく声をかけて来たのは、兄達と同じ年くらいの、少年だった。
『帽子が風に飛ばされて、あそこに引っかかってしまったの』
手を伸ばしても届かない、上の枝を指させば
『大丈夫、ちょっと待ってて』
斜め掛けしていたカバンを、そっと草の上に置き、両手でひょいっと、枝に飛び付いた。
反動で身体を持ち上げ、またがった枝から、手を伸ばす少年。
淡い紫色のリボンが付いた、帽子を片手に、ふわりと、木から飛び降りた。
『どうぞ、お姫様……!』
優しく帽子をかぶせてくれた、凛々しい笑顔は、まるで王子様のよう。
『ありがとう』
『どういたしまして。ほらっ……○○だよ』
涙をぬぐいながらお礼を言うと、カバンから王子様が取り出した、ふわふわの毛玉。
小さなぬくもりを、両手にそっと、乗せてくれる。
『可愛いだろ?』
問われて、こくりと頷き、そっと持ち上げて、柔らかな毛を、頬に当ててみた。
『……くすぐったい!』
思わず、笑みがこぼれた口元に、真っ白な長い耳が、ほわりと触れた。
嬉しさに弾んだ瞳で、見上げた先に待つ、優しい笑顔。
逆光で、よく見えない――あれは
「……さま、シャーロット様……!」
乳母の呼ぶ声で、夢から覚め、現実に引き戻された。
ここは、わたくしの婚礼のため、ヘア伯爵家に向かう、ほの暗い馬車の中。
花が咲く、平和な野原ではない。
「お休み中、すみません。そろそろ、身支度を整えませんと。ユナ、そこの箱を……」
祖母でもある乳母の指示を受けて、手鏡やクシを取り出しながら、侍女のユナが労わるように、声をかけてくる。
「朝からずっと、馬車に揺られて――お疲れですよね、お嬢様?」
「わたくしは、大丈夫よ」
「またそんな……わたしとこの子の前では、ワガママを言っていいんですよ? まったく、荷馬車があんな事にならなければ、とっくに着いていたはずですのに」
ため息と共に、老いた指先が、シャーロットの肩から、夜空のような藍色の、マントを外した。
その襟元をふち取る、真っ白な毛皮がふわりと、頬をかすめる。
『これのせい……?』
幼い頃から何度も、繰り返し見てきた、暖かく明るい光に満ちた、幸せな夢。
あれは、本当にあった事?
でも、相手は兄様でも、ジェル兄様でもない。
「だったら、あの『王子様』は……?」
「お嬢様? 何かおっしゃいましたか?」
「ううんっ――ばあやは腰、大丈夫? ずっと座ってて、つらくない?」
独り言をごまかそうと、腰痛持ちの乳母に、あわてて尋ねると、うっ――と、声を詰まらせた後
「シャーロット様っ……! おいたわしい‼ こんなにお優しくて、誰よりも美しいお嬢様が、兎穴なぞに」
「ばあや――!」
しっ!と人差し指を、嘆く乳母の、口元に押し当てる。
本当は、わたくしだって、泣き叫びたい。
『兎穴なんかに、嫁ぎたくない……!』って。
でも、わたくしは、ウルフ公爵家の娘。
お父様やお母様、お兄様達のため、領民のため。
おじい様の仇の家でも、幼い頃の似顔絵でしか、顔も知らない相手でも……逃げるなんて、出来はしない。
だったら、あとは……誇り高い、狼の姫君のように、顔を上げて、立ち向かうだけ。
「『弱音を吐くなんて、ウルフ公爵家の名が泣きます』――って、ばあやの口癖でしょ?」
「申し訳ありません……お嬢様」
しょんぼり、うな垂れた乳母と、心配顔の侍女の肩を、ぎゅっとまとめて抱きしめて
「一緒に来てくれて、ありがとう……ばあや、ユナも」
『頼りにしてるわよ?』と、心を込めて、ささやいた。
「シャーロット……あと数刻で着くぞ」
灰色の馬が馬車の窓に並び、護衛として同行したジェラルドが、良く通る声で告げて来る。
「はい……!」
窓の外は、どこまでも深い森。
夕日が残したオレンジ色の雲が、梢の向こうに消えようとしていた。
祖父の代まで争って来た、敵陣に到着したのは夜遅く。
日がとうに、暮れた後だった。
「そちらはウルフ公爵家、シャーロット様の馬車か――?」
意外にも門の前では、手に手にカンテラを掲げた、召使い達が出迎え、
「ご到着が遅いので、心配しておりました」
安堵の声と無数の灯りに、導かれてたどり着いた、屋敷の車寄せ。
そこには、星空を焦がしそうな、巨大な篝火が。
その炎を背に、闇に溶け込むような、黒い馬から飛び降りた、一人の従僕が、優雅に右手を差し出す。
「ようこそ」
何気なく左手を重ね、馬車から降りたところで、気が付いた。
「手……」
マナー通りだとここは、差し出された左手に、右手を重ねる所。
『左利き』と言う、家族やごく親しい人にしか、知られていない特徴を……この召使いは、知っている。
「あなたは……?」
背の高い従僕の顔を、シャーロットが、はっと、見上げた。
篝火に煌めく、金の髪。
筋張った大きな左手が、前髪をかきあげる。
その奥から現れた、深い青灰色の瞳が、一筋の光のように、シャーロットの胸を刺す。
『わたくしは、知っている……?
この瞳を?
この方を?』
動揺を押し隠し、相手に託した左手を、さり気なく、離そうとしたとき、
逆に、ぐいっと、強く握られた。
「私が、ヘア伯爵家の当主……ウィルフレッドです」
その、どこか懐かしい瞳が、
「兎穴にようこそ……白ばら姫」
篝火の熱を灯して、見下ろしていた。
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