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余り語られない撮影所のあれこれ  作者: 元東△映助
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余り語られない撮影所のあれこれ(172) 「時代劇と歴史的事実」

余り語られない撮影所のあれこれ(172)

「時代劇と歴史的事実」


●時代劇の歴史

歌舞伎の映画化から始まる旧劇は、革新旧派映画、純映画劇、新映画劇、旧派純映画劇、新時代劇および新時代映画と名前を変えつつ、時代劇および時代映画へと落ち着きます。

その後、「時代劇」は「髷を結い、チャンバラが観られるテレビ番組及び映画」という概念で世間に浸透して行きます。

それは、「新時代の映画」という意味だった「時代」という言葉が、世間が「時代」という言葉から受けるイメージを引き受けて、「昔の」「歴史的な」という意味に変わって行く事となりました。

ですから、必ずしも「チャンバラ」があるわけでもなく、「髷を結っている」ことが条件でもないのです。


しかし、そんな一般世間が持つ「時代劇」という概念上、「歴史的事実」との乖離が囁かれるようになりました。

今回は、「時代劇」の中の「歴史的事実」の絶妙なバランスを考察してみたいと思います。


尚、例によって情報のほとんどが約30年程前です。

今となっては変わっていることや、無くなっていることもあります。また、記憶の内容が30年の間に美化されたり劣化してしまっているものも存在します。

その点をご理解の上、あらかじめご了承下さい。

そして、ここでの意見は、あくまでも個人的な意見です。

東映をはじめとした各社や映像業界の直接的な意見ではありません。その点を予めご理解ご了承下さい。


●フィクションとノンフィクション

「時代劇」は、近年では多くは制作されなくなってきました。

「時代劇」の象徴としての「大河ドラマ」でさえ、存続の危機が定期的に噂されたりしています。


通常の「時代劇」は、元来は「それらしい」歌舞伎や芝居の感覚なので、「歴史的事実」は余り重要視されない謂わば「フィクション」での「時代劇」となります。

これは「架空の時代小説」つまり、「架空の登場人物が活躍する架空の物語」を「時代劇」化した作品を言います。

これに対して、「ノンフィクション(のように見える)」「時代劇」という作品もあります。

大抵が「歴史上の事件」や「歴史上の人物」を題材にした「時代劇」で、登場人物や物語は「歴史的事実」の上に構築されています。

しかし、全ての「歴史的事実」が踏襲されている訳ではないのです。


●ノンフィクションの中のフィクション

「ノンフィクション」の“ようにみえる”「時代劇」の殆どの「歴史的事実」は、「歴史研究の成果としての真実」と、「現代人が理解可能なように現代に置き換えて表現した虚構」が入り混じる事になります。

また、「歴史研究では真実が見つけられていない部分の穴埋め的な虚構」も存在します。

具体的にいえば、現在の愛知県出身の徳川家康が話しをしていた口調が三河訛りであろうとしても、幼少期より現在の静岡県の今川頼元に人質に出されていた事を考えると、三河訛りをどこまで使っていたかは「歴史的にいえば分かっていない」状態なので、「歴史的事実」とは言い切れません。

戦国時代には文語体の書類しか残っていないだけに、本当に話していた言葉や訛りはわかっていません。

ましてや映像化されるとなると庶民的な三河訛りや尾張訛りを役者に話させると、訛りと共に感じさせるイメージ的なモノがキャラクターにそぐわなくなる可能性が出てきます。

だからこそ、「歴史的事実」を中心に描かれるノンフィクションの作品といえどもフィクションは存在しているのです。

キャストが標準語を話す事で、抱いているキャラクターへのイメージを壊さずに、視聴者や鑑賞者に理解がしやすいメリットがありますから、純粋に「歴史的事実」を追うだけがノンフィクションを世に届ける方法ではないと言えるのです。


「歴史的事実」が分かっていない部分に於いては、その解釈は千差万別であり、ノンフィクションでありながらフィクションの面も見せている事になります。

例えば、歴史書に記載されたとある藩の家老の人物の名前からだけでは、その人物が善良であったのか悪評があったのかはわかりません。

そして、歴史書に名前がある以上は子孫も存在するでしょう。

その子孫に聞いても歴史上の人物の性格までは分からない可能性があります。

だからといって、その家老を悪役にした時代劇を作って良いとは限りません。

例え「歴史的事実」としてその家老の悪評があっても、その人物の一側面を見ての評価かもしれないかもしれないからです。

曖昧な状況の中で描くしかない「歴史的事実」は、存在する訳です。

つまり、ノンフィクションな人物であってもそこにフィクションが存在してしまうこととなります。

だからこそ、あえて「歴史上の人物」ではないフィクションの人物に「歴史上の人物」の代理をさせてフィクションでノンフィクションを補うという場合もあります。

また、ノンフィクションの人物の一側面をフィクション化して物語性に正統らしき説得力を持たせようとする場合もあります。


時代劇では「歴史的事実」の主軸に、フィクションの衣を纏わせながらノンフィクションらしく見せる場合もあるという事であり、そうでなければ時代劇の物語として成立させ難いという部分もあるのです。


●リアルを追求する

時代劇に「リアルを追求」する傾向は昔からあります。

元来、鑑賞者が見やすく楽しめる見世物として成立させた時代劇には、それ程リアルは必要ありません。

むしろ、リアルを持ち込む事で興ざめする場合すらあるのです。

しかし、リアルを持ち込む事で「歴史的事実」ではないにも関わらず「歴史的事実」に見せかけるという効果がある場合もあります。


その最たる例として、時代劇とリアルの溝としての永遠のテーマが「刀で切られた場合の表現」をさぐる事があります。

リアルを追求するのであれば「血しぶき」が散るでしょう。

しかし、それは「余りのリアルさに鑑賞者を作品から遠ざけてしまう」事にもなりかねません。

「血しぶき」を表現する特殊効果の技術の未熟さや費用、大変さなどから「時代劇」の元となった「歌舞伎」や「演劇」の世界でも「血しぶき」は表現していませんでした。

だからこそ、時代劇も通常「斬られても血しぶきが出ない」という表現で「鑑賞者の想像力」に委ねたのです。

昔、その「血しぶき」をリアルに表現しようとした映画がありました。

通常のチャンバラカットには一切「血しぶき」は表現せず、象徴するカットにだけ派手に演出した「血しぶき」を描きました。

しかし、それはあまりにも派手な「血しぶき」であったために「リアル」とは受け取れないものでした。

現代においてはCG技術の発達によって「血しぶき」の表現は比較的容易に映像におこすことが可能になっています。

それだけに「リアルな血しぶき」に対する「倫理規定」も強化され、「人の死」を表現する「リアル」を抑えなければならなくなっています。

そんな中でも「リアル」を追求しようとする映像作品も存在します。


「時代劇」には、映像表現だけではなく「歴史的事実」にリアルさを求めるか省略するかを選択する部分が多く存在します。

先にあげた「方言・言葉遣い」や「時代的所作」といった無形のものから「小道具」「衣装」「メイク」「髷」といった有形のものまで多種多様に「時代に即したリアル」は存在するのです。

「刀」ひとつ取っても「時代的刀剣の形」は存在しますし、「髷の結い方」も時代によって流行り廃りのある現代のヘアースタイルと同じ「リアル」があります。

徐々にわかってきた「歴史的事実」も存在します。

「長槍」の合戦での使用方法が「突く」のではなく「叩く」ということも分かってきた「リアル」です。


最たるものは「馬」です。

現代における「馬」とは「サラブレッド」をはじめとした外来種が一般的で映像的にも「サラブレッド」の騎馬隊で表現されますが、「

歴史的事実」に「リアル」を追求するのでれば鎖国が解かれるまでは日本には一般的に「サラブレッド」は存在せず、むしろ現代の「ポニー」に属するような小型の馬が主流でした。

日本の戦国時代の騎馬隊には「木曽馬」と呼ばれる小型の在来種が多く使用されていました。

日本在来種はいずれもモウコノウマ種に分類される和種在来種であり、現存する北海道和種、木曽馬、野間馬、対州馬、御崎馬、トカラ馬、宮古馬、与那国馬、とかつて存在した南部馬、三春駒、三河馬、甲斐馬などの馬がありますが、どれも体高100㎝~140㎝という小型種であり、現代では「ポニー」に分類される体高しかありませんでした。

尚、「体高147㎝以下」の馬の総称が「ポニー」であり、「ポニー」の中にも多くの品種が存在します。「サラブレッド」は馬の品種のひとつです。

揃えようとすれば「ポニー」の騎馬隊を編成することは可能で、それが映像的には「リアル」なのでしょうが、「サラブレッド」を馬として認識する一般的な鑑賞者にとってみればそれは「違和感」でしかなく「リアル」ではなく「コメディ」しか目に映らなくなってしまうでしょう。


●リアルとリアリティの違い

「リアル」は形容詞として「本物の」「真実の」「実在する」といった意味があります。

これに対して「リアリティ」は名詞であり、「現実」「現実性」「実在」といった意味があります。

つまり、品詞の違いこそあれ意味的には大きな違いはありません。

しかし、この「リアリティ」に「~がある」「~がない」といった言葉を添えたときに現代では「リアリティがある=共感できる」「リアリティがない=共感できない」といった意味合いへと変化が生じます。

鑑賞者という観客が存在する映像の世界において、この違いは大きいのです。

いくら「リアル」に描いても「リアリティがない」と受け取られれば、鑑賞者にとっては「リアル」と感じ取ってくれない「まがい物」でしかないのです。

ということは、「リアル」でなくとも「リアリティがある」と感じ取ってくれたものが鑑賞者にとっての「リアル」なのです。


つまり「歴史的事実」である「リアル」で固めた影像よりも、その中に「歴史的虚構」たどしても「リアリティがある」と思わせる「鑑賞者のリアル」を見せることで、「リアル」と「勘違い」して「リアリティがる」と大多数が思ってくれるのでしょう。

そんな映像表現に「リアルじゃない」と抗議があるというのは仕方のないことなのです。

ただし、スタッフもキャストもその「歴史的虚構」をわかった上で、「万人向け」の「リアリティのある」映像を作り出そうとしていることだけは理解して頂きたいと思います。


いつもいつも綺麗な着物。血色の良い人ばかりの庶民。血の出ないチャンバラ。サラブレッドで組織された騎馬隊。戦い方や陣形が異なる合戦。


●あとがき

ノンフィクションの時代劇において「歴史的事実」は大切です。

しかし、「歴史的事実」だけでは様々な制約があり映像的に成立しない場合が多々あります。

どこまで「歴史的事実」を入れ込みながら「(鑑賞者にとって)リアリティがある」映像に昇華するのかが悩みどころになるのです。


尚、「歴史的事実」を逆手にとって「コメディ」へと昇華した作品というものも存在します。

「時代劇」に現代機器を持ち込んで「歴史的事実」の一部を崩壊させることで見たことのない映像をつくりあげた「浮浪雲」や「家電侍」といったコメディ系時代劇といった例があります。


また「歴史的事実」を踏襲しながらも「歴史的事実」から逸脱した部分を入れ込むことで元来とは違った「時代劇」の形を示した「子連れ狼」といった作品や、「歴史的事実」に全く違った要素を入れ込んだ「時代劇特撮ヒーロー」という作品もありました。


このように「時代劇」に内包される「歴史的事実」は、取捨選択することで様々な「時代劇」作品を作り上げることができます。

つまり、歴史的に違っていたり忘れていたりしても、それが作品の「個性」という形で昇華されている場合も多いのです。

ですから、映像作品にみられる細かな「歴史的事実」の相違には、何かの秘密が隠されているのではないかと考えながら作品を鑑賞して頂ければ、面白い視点を持てるのかもしれません。

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