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余り語られない撮影所のあれこれ  作者: 元東△映助
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余り語られない撮影所のあれこれ(103)「特撮以外の撮影現場」vol.4「時代劇の撮影現場(エピソード編) 」

★「特撮以外の撮影現場」vol.4「時代劇の撮影現場(エピソード編)」


●時代劇と特撮

時代劇の話の前に、特撮に絡んだ話をしたいと思います。

現在、東映京都撮影所(通称:太秦撮影所)では時代劇がメインで撮影されていますが、現代劇のドラマや映画も撮影されています。

京都を中心としたドラマ撮影などでは京都撮影所を拠点に撮影される場合もあります。

そして、今や東映では東京撮影所だけとなってしまった「東映特撮」の撮影も京都撮影所で行われていた時代もありました。

今日では特撮をはじめ、東京でのドラマで一部時代劇シーンが使用される場合などはでは、日光江戸村をはじめとして、茨城県のワープステーション江戸、山形県の庄内オープンセット等といった江戸時代のオープンセットで撮影される場合もありますが、かつては東映の特撮映画やTV特撮番組等では京都撮影所を使った「仮面の忍者赤影」「変身忍者嵐」等の特撮時代劇を撮影していました。

また「宇宙からのメッセージ」「宇宙からのメッセージ銀河大戦」の様な東京撮影所よりも大きいステージセットの撮影が絡む場合などの特撮作品も京都撮影所で撮影されていました。


流石に今回は特撮の話はありませんが、前回に入らなかった時代劇撮影時のエピソードに関して語ってみたいと思います。


尚、例によって情報のほとんどが約30年前ですw

今となっては変わっていることや、無くなっていることもあります。また、記憶の内容が30年の間に美化されたり劣化してしまっているものも存在しますwwその点をご理解の上、あらかじめご了承下さい。

そして、ここでの意見は、あくまでも個人的な意見です。

東映をはじめとした各社や映像業界の直接的な意見ではありません。その点を予めご理解ご了承下さい。


●はじめての撮影現場

私の初めての撮影現場は、前回お話しした「時代劇スペシャル 子連れ狼 冥府魔道の刺客人 母恋し大五郎絶唱!」でした。

今では「子連れ狼(高橋英樹版)」で知られる時代劇ですが、この時代劇は私にとって印象深かったのは初めての撮影現場というだけではなくて「語れない撮影所の裏話」という撮影所の裏側を多く見た撮影現場であったことも由来しています。

そんな中で、比較的「語れる」エピソードを幾つかご紹介したいと思います。


●長山洋子さん

この時代劇は、高橋英樹さん主演で若山富三郎さんが敵役という二枚看板の様な大御所がご出演されていますが、実は長山洋子さんもご出演されていました。

若山富三郎さん演じる柳生烈堂の孫娘役でした。

長山洋子さんは、カツラではなく自分の髪の毛を結って役に挑んでいましたが、その髪の毛を柳生烈堂に掴まれて廊下を引ずられるというシーンまでこなされていました。

若山富三郎さんは仕事に厳しく自分にも厳しく周りにも厳しい人でしたので、長山さんに対しても役者としての成長を願って厳しく接していたのだと思います。

長山さんもこの時代劇の数年前から女優活動を続けていましたが、アイドル活動との両立でもあったので、大御所・若山富三郎の直接指導を得られると意気込んで参加されていて、厳しい若山さんの指導に泣き言も言わずに付いていっていました。

若山さんもそれに応えるかの様に「根性がある女優」と、呟いていたのを伝え聞きました。


余談ですが、私が京都撮影所から東京撮影所に移り「機動刑事ジバン」の助監督になったばかりの頃、長山さんが「さすらい刑事旅情編」で東京撮影所に来ていました。

私自身は長山さんを東京撮影所で見かける事で「『さすらい』に出るのか…」と存在は認識していましたが、私などは向こうにしてみれば京都撮影所に居た只のペーペーのアルバイトですから、憶えている筈もないと思っていました。

しかし、長山さんの衣装合わせの際にたまたま私が衣装室に顔を出したところ、「え?何でこっちに居るんですか?」と、明らかに私を認識して話しかけてくれたのです。

「東京で助監督になりました」と伝えると「頑張って下さいね」「長山さんも頑張って下さい」と言葉を交わさせて頂きました。

という事で、長山さんは私の顔を憶えていてくれた初めての女優さんになりましたw


因みに、この後に高橋英樹さんとも半年に一度毎にお仕事をご一緒し、顔を覚えて貰える様になりましたw


●若山富三郎さん

先程も書いた様に、若山さんは仕事に厳しい人でした。

第52部(51)「撮影所の喫煙状況」にも書かせて頂いた様に本当に仕事とプライベートを分ける人でしたし、他人に強制できるほどに自分にも厳しい人でした。そこは弟さんとは違うところかな?

因みに弟さん=勝新太郎さんには甘かったと言われています。

そんな若富さん=若山富三郎さんの自分に厳しいエピソードがあります。

と、言っても対抗意識というか自己顕示欲が強かっただけともとれますが…

「子連れ狼」の撮影中、「ここで“トンボ”を切るんや」と台本に無いアクションカットを提案した若富さん。「トンボを切る」とは「トンボ返り」=「宙返り」の俗称で、若富さんは若い頃からこの「トンボ切り」が得意であったこともあって、当時59歳にもかかわらず主演の(一回り以上若い)高橋英樹さんに対抗意識を燃やしてスタント無しの自分のアクションの見せ場を作ろうとしたのです。

まぁ、芝居の世界の「トンボ切り」は、着地に関しては背中から落ちようと関係ありません。立ち回り=アクションとして「宙返り」が成立していれば良いのです。

しかし、場所は斜面の途中で足場も悪く、前転宙返りなどをしても下まで転がって行きかねない場所の上に、いくら背中から落ちれば良いと言っても失敗すれば手足の骨や最悪首の骨を…という事を考えるような場所でした。

「このカットは、ワシの全身を入れてトンボの着地まで撮る」

監督を始めとして付き人やマネージャーも若富さんを諭したのですが、言うことを聞いてくれません。

スタッフはせめて踏み込む足場を平らになるように斜面をスコップやシャベルで手掘りして一部を削り、着地地点には毛布を何枚も敷いてクッション代わりとしたのです。

これを見た若富さんは、流石に着地まで撮影するとは言わずに「トンボを切る」という事だけに譲歩されたのです。

それでも危険な足場と危険なアクションカットです。

「トンボ切るのも久しぶりや」

若富さんの言葉がどれだけスタッフ一同を凍りつかせたでしょうか…

しかし、流石は自分に厳しい若富さんは、一発で「トンボ切り」を成功させて、軽い打ち身くらいで収まったのでした。

「どや、凄いやろ」

若富さんの「トンボ切り」が成功した時の59歳の無邪気で自慢気な顔と笑みは忘れられません。

翌日の撮影時、周りのスタッフに「昨日の“トンボ”が、まだ応えとる」と笑っていたのも印象的でした。


この「子連れ狼」という作品の「語れないココだけの話」は多々ありますが、大抵は若富さんに端を発するモノである事もまた事実です。


●京都撮影所のスタッフ

当時は、時代劇を専属で作る京都撮影所のスタッフには、専門意識と共に東京撮影所よりは自分達の方が上だという自負を持たれる方もいらっしゃいました。

別に優劣は無いのですが、撮影所で撮影される作品には漠然とグレードの様なモノが存在していました。

映画>特別ドラマ>連続レギュラードラマ>子供番組>短編作品>テレビ局内番組

ある意味、フィルム撮影がグレードが上でビデオ撮影の作品はグレードが下という感覚がありましたし、「助監督」と「AD(アシスタント・ディレクター)」は違うとも思っていました。

今思えば、周りからの意識改革というか啓蒙活動にハマって居たのだと思います。

まぁ、「助監督」と「AD」の違いの意識は未だに拭い切れていませんが…

このグレードの差に対して、京都撮影所のスタッフの間では「時代劇」>「現代劇」という線引までもをするスタッフがいらっしゃいました。

同じ連続ドラマでも「時代劇」の作品の方が「現代劇」より格上だと言い、自分達の仕事に対して誇りを持ちたかったのだと思います。

テレビ局等の他所に行けば「視聴率」という部分で優劣を付けようともしていましたし、同じ連続ドラマの話数によっての「視聴率」も優劣の対象となっていました。

ですから、昔ながらの映画撮影に近い撮影方式を貫き、カメラマンを撮影監督として監督と同列かそれ以上の存在として認識する昔気質の京都撮影所のスタッフにとっては自分達の作品と仕事に対する誇りと自負を失いたくなかったのだと思います。


●水戸黄門=西村晃さん

このエピソードは、実は「ライブ版 余り語られない撮影所のあれこれ」の会場でも語らせて頂いたモノですが、西村さんの人となりとスタッフとの関係を表すのに良いと考え、また、実は書いていないエピソードだと思い、今回始めて書かせて頂きます。


第21部の「水戸黄門」は第1話を異例の2時間特別作品とした事で、2話と3話のスタッフを従来の水戸黄門のスタッフの一部と外部からの応援スタッフとで賄っていました。

そこで、一応時代劇のスタッフ経験のある東京撮影所のスタッフの私にお鉢が廻って来たのです。勿論、「正月に田舎に帰るのなら、その前に京都に寄って手伝ってやってくれ。ギャラも多く出すし、長めに休み取って良いから」という斡旋会社の甘い誘惑(後から考えれば、ギャラの上乗せは交通費でした)に乗ってしまったのですが…


私は、特殊な時代劇の作品の伝統の作品の助監督という事で、セカンド助監督の役職となりましたが、コレはとりあえず「お客様」状態のスタッフだからという事からでした。

例えば、逆の立場で「スーパー戦隊」や「メタルヒーロー」、今の「仮面ライダー」等の助監督に外部の作品から応援をして貰えるのならば、特撮作品のスタッフ経験の無い人ならばとりあえずセカンド助監督に付いて貰うでしょう。

それは、どの作品でもセカンド助監督が助監督の仕事として大きく違わないからだと思います。


そんな外部からの応援スタッフであった私は、少し浮いていたのだと思います。

そんな私は、撮影初日に「スタンドイン」に立つことになりました。

この「スタンドイン」とは、キャストの代わりに撮影現場の立ち位置に立ち、照明やカメラの準備を手伝う事で、助監督が立つことが多いのです。

琵琶湖の畔の砂浜での撮影でした。

本来ならば、スタンドインは動く事はありませんが、この時はカメラがドリー移動だったのでドリーのテストを兼ねて歩くことになりました。

私は、数歩歩いた時に足がもつれて躓きそうになったのです。

その後、何とか姿勢を戻して歩ききりました。

さて、いざキャストと交代してリハーサルとなった時に、私が躓きそうになった場所で水戸黄門様=西村晃さんも同じ様に躓きそうになったのです。そして、私と同じ様に姿勢を戻して歩かれました。

「助監督さん。コレで良いですか?」

西村さんは、私に向かって微笑んだのです。

周りのスタッフも大笑いしていました。

「西村さん。スミマセンでした。そこは、躓かないでも構いませんので、そのまま歩いて下さい」

「演出かと思いました(笑)、黄門様も人間味というか親しみが必要という演出かと(笑)」

西村さんも冗談を続けて、新たに加わった助監督との関係を笑いで作って下さいました。

西村さんも周りを良く見ていました。

やはり、主演は座長とは良く言ったモノです。


●あとがき

時代劇にまつわるエピソードはコレだけではありません。

私がロケーション撮影に遅刻して、撮影現場までバイクで追いかけて、根性と責任感を認められた話等もありますが、そんな私の事よりもキャストやスタッフとの事を厳選してみました。


尚、時代劇でのエピソードとはいえ、殆ど現代劇の撮影現場でのエピソードと変わりないモノとなってしまいましたが、それは時代劇だ現代劇だという作品の違いによって優劣ができるモノではなく、本質的に同じモノなのだという表れだからだと思っています。

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