第25話 灰色の回廊
今年が後十日程で終わろうとするある日、茉莉香はパリへ渡った。
翻訳の件でクロエと打ち合わせをするためだ。
「やったわね。茉莉香! あなたなら絶対大丈夫だと思っていたわ!」
クロエは茉莉香の顔を見るなり、祝福の言葉を浴びせかけてきた。
彼女は間隔を置いて新作を発表し、どれも好評だ。
もっと新作を書いて欲しい。
それが出版社の本音だろう。
「ありがとう。でも、これからが本番なのね」
「そうよぉ。責任重大よ」
二人の笑い声が部屋中に弾ける。
仕事の打ち合わせが終わった後、
「今日は、この後恋人と?」
クロエが尋ねると、
「いいえ。内緒で来ているの。夏樹さん、今、とても大事な時期だから……」
「そうだったわね。一次審査はパスしたのよね。大したものだわ。16区の図書館の件は話題になってるわ」
クロエが感心したように言う。
「ええ。あとはプレゼン審査なの。結果の発表は年が明けてすぐ」
「それは確かに大事な時期よね」
クロエが同情するように茉莉香を見た。
「じゃあ、これから私と食事をして、そのあとバーへ行きましょう」
「ええ」
茉莉香が笑顔で頷く。
バーでは、クロエと茉莉香は互いの近況を話し合い、クロエは夏樹との話を聞きたがった。
久しぶりに会う友と語り合う喜びに、二人の話は尽きなかった。
だが、夜も更けた。
「じゃあ、今日はこれで」
「頑張ってね。茉莉香。仕事。それから……恋人の事」
タクシーに乗り込もうとする茉莉香に、クロエが言う。
「ええ。ありがとう」
茉莉香がこたえた。
タクシーに乗って、滞在するホテルへ向かう。
シャンゼリゼ通りでは、ビルがライトアップされ、街路樹はイルミネーションで彩られていた。
眩い光の洪水。夜を知らぬ街……。
タクシーの窓から、茉莉香はそれらをじっと見つめた。
「お嬢さんは、クリスマスシーズンのパリは初めてかい?」
運転手が人の好さそうな声で尋ねる。
「はい、とてもきれいで驚いています」
「そうかい。そりゃよかった」
茉莉香の言葉に運転手が嬉しそうに笑った。
そして、ある個所を通過しようとしたとき、
「すみません! 車を泊めてください!」
突然の依頼を、運転手は快く引き受けてくれた。
「しばらく待っていてくれますか?」
運転手に声をかけ、車を降りる。
車を泊めたのは『ガスパール・デュトワ建築事務所』のあるビルだった。
「こんなところで車を泊めて……夜遅くじゃ、もう誰もいないのに……」
だが、せめて夏樹の働く場所を見届けたかった。
茉莉香が建物を見上げると、灯りの点いた部屋がある。
「まだ、働いている人がいるなんて……」
外は寒い。
茉莉香が襟をそばめてタクシーに乗り込もうとすると、
「茉莉香ちゃん!?」
背後から懐かしい声が聞こえた。
振り返ると、声の主が呆然と立っている。
「茉莉香ちゃん!?」
茉莉香は、目の奥が熱くなるのを堪えた。
「あ、あの……出版の打ち合わせで……」
夏樹は自分がパリに来ているのを知らないのだ。
しかも、こんな風に会うなんて、思いもよらないことだろう。
茉莉香には説明する言葉が見つからない。
イルミネーションの明かりが二人を照らす。
道を歩く人々は笑いさざめき、時折、車のクラクションが鳴り響いた。
光と喧騒の渦の中、二人は言葉もなく見つめあった。
「明後日がプレゼンなんだ。仕上げをしていて……夜食を買いに出かけたところだったんだ」
なぜ。 どうして。 ここにいるのか?
夏樹は茉莉香に何も聞かなかった。
「ここは寒い。ひとまず中に入ろう」
そして、運転手に向かって、
「すぐに戻ります。待っていて下さい」
と言った。
夏樹に手を引かれ、茉莉香は初めて建築事務所に入った。
「暗いのね……」
「うん。俺だけだったからね」
声をひそめて話す。
すでに明かりは落とされていた。物音もしない。
外とは打って変わった光景だ。
屋内に入ったというのに、急に寒くなったような気がする。
「寒い? ごめん。空調を切ったばかりなんだ」
「ううん。大丈夫。すぐに帰るから」
一か所だけ天井と机の電灯が灯され、ほんのりとあたりを照らしている。
夏樹に手を引かれ、仄暗い部屋を、吸い込まれるように歩く。
周囲には、図面や模型が積み重ねられた机が並んでいた。
見知らぬ暗い部屋が気味悪く、夏樹の手を握りしめると、そっと握り返される。
やがて白い照明が当たる場所へたどり着いた。
(ここが夏樹さんのデスクなのね……)
茉莉香はようやく一息をつくと、
「ごめんなさい。突然来てしまって」
と、詫びた。
夏樹は忙しいのだ。恥ずかしいし、気まずい。
だが、こうして会えてうれしかった。
「ううん。俺、嬉しいよ」
「明日、プレゼンなのね」
「ああ。もう少しで終わるんだ」
茉莉香は、ふと、あることを思いついた。
だが、それは口にしない方がいいだろう……。
……が、
「どんなアイディアなの?」
口にしてしまった。
「うん。ほんとは内緒なんだけどね。でも、一次審査をパスしているし……特別だよ」
そう言って、模型を取り出した。
模型は二つある。
一つは外観を表したものだ。
建物は正方形で、緑豊かな公園の中にある。
一階はガラス張りで、二階以上も窓が規則正しく並んでいる。
コンクリートのタイル張りの外装だ。
灰色のラシャ紙が、その表面の質感を表していた。
「四角くて可愛いわ。森の中から古いお城が顔を出しているみたい」
思わず微笑みがこぼれる。
不思議だ。近代的なコンクリートの建物なのに、なぜか懐かしさを感じる。
「そうかい?」
夏樹が笑いながら内装の模型を前に出す。
「建物は五階建て。一階はロービーや閲覧室がある。ガラス張りだから外を見ることができる。それで、二階に上がると……」
壁に沿って、書架の並ぶ廊下が取り囲んでいる。
「中央は吹き抜けで回廊が取り囲む。エレベーターもあるけど、できれば階段を使って欲しいな」
茉莉香がじっと模型を見つめた。
正方形の回廊が、吹き抜けを取り囲んでいる。
「屋根の天窓から光が差し込む。書架にそって白い間接照明を設置する」
内装は、廊下も壁もコンクリートのタイル張りだ。灰色の書架が、回廊をぐるりと取り囲む。
「回廊を歩きながら本を探すんだ」
茉莉香は灰白色の空間に取り込まれ、深い静寂に包まれた自分を想像した。
天窓と白い照明が、仄かに部屋を照らしている。
色の無い静謐な空間で、本に囲まれ時を忘れる……。
「周囲はグレーだから、落ち着いて本が探せる。書架が並ぶ回廊は少し暗い。でも、閲覧室のある一階はガラス張りだし、照明もあるから不自由はしないよ」
無機質なデザインだが洗練されている。
だが、何か物足りないような気がするのだ。
(なにかしら……?)
考え込むと、
「どうかした?」
夏樹に尋ねられる。
「うーん。あのね……」
と言いかけ、
「あら……? 窓がないわ。外側からは見えたのに」
思わぬことに気づく。
通路にそって書架が並べられている。これでは全く外を見ることがでず、いくら本好きでも、息苦しいのではないか。
夏樹は得意げな顔をすると、
「本棚が途切れる場所を数か所設ける。そこから入ると……この模型この部分は外せるんだ……」
と、言って書架の一部を外す。
「本棚の外側にも回廊がある。廊下の幅は、人ひとり歩けるだけで、ここは一方通行にする。歩きながら外を眺めることができるんだ。窓から公園の緑を見ることができる」
「メルベイユ……」
茉莉香の唇から、吐息とともに言葉がこぼれる。
「そうだね」
夏樹が笑顔で頷いた。
モン・サン・ミッシェルの修道僧たちが、瞑想したという驚嘆。
仄暗い礼拝堂を出た彼らは中庭の緑を楽しみ、休憩をして静かに過ごしたのだ。
コンクリートタイル張りの建物が、ロマネスク様式を纏った石造りの僧院に見えてきた。夏樹の設計した図書館は、中世の修道院を思わせる。
「来館者たちは本を探し、読んで、静かに過ごす。そうやって日常を離れる」
夏樹が静かに言う。
「建物と、ここを愛する人が一つになって、この場所は完成するんだ」
「建物と人が一つに……?」
再び考え込み、
「……まぁ! そうなのね!」
茉莉香は気づいた。
感じた物足りなさは、人を受け入れる緩みのようなものだったのだ。
建物は人の背景となり、人は建物の一部となる。
この無機質な灰色の建物は、訪れる人により命を吹き込まれるのだ。
「俺は、そんな空間を作り上げていきたいんだ」
「素晴らしいわ!」
感動で体が震えるようだ。
そして予感した。
―― 偉大な芸術家が誕生しようとしていることを……。
夏樹には理解できない部分があり、それが茉莉香を不安にさせていた。
今、僅かに垣間見たような気がする。
夏樹は自分のスタイルを模索し、それを見つけたのだ。
このままここにいたい。この喜びを分かち合いたい。
だが、夏樹の戦いはまだ終わっていないのだ。
「私、帰らなきゃ……車を待たせたままだわ」
「いけない! 玄関まで送るよ」
二人は慌ててタクシーへ向かう。
運転手は、にこにこと笑って迎えてくれた。
「頑張ってね」
「ああ」
茉莉香を乗せて、タクシーは夜の街を走り出した。
前方にはライトアップされた凱旋門が見える。
振り返ると、夏樹が手を大きく振っていた。
茉莉香はその姿が見えなくなるまで、バックドアガラスを見つめる。
タクシーは光の中を縫うように走り抜けていった。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。




