八話 シンシア
* * * *
彼方此方、水気だらけ。
熱を入れて『魔道』の比べ合いをしていたせいで、私とエヴァンはまるで雨にでも打たれたかのように、水浸しになっていた。
「やります。それ、やります」
二人して同じタイミングで『魔力』切れを起こし、結局勝敗つかずで終わってしまった丁度そのタイミングを見計らって投げ掛けられた先生の言葉に、私はそう言って即答した。
先生曰く、ある場所で発生している魔物討伐をお願いしたい、との事。
臣下といっても何をして良いのか分からなかったし、仕事を貰えるのであればそれに越した事はない。
だから、是非、と思った。
「何なら、私は今から向かっても————」
構いません。
と、言おうとしたけれど、ついさっき『魔力』切れを起こしていた事を思い出して慌てて口を閉じた。
「取り敢えず、『魔力』の回復を待つ他ないわな」
遅れて、エヴァンから笑い混じりにそう指摘を受ける。
「では、一度城に戻りましょうか。この仕事をこなすのであれば、色々と準備も必要でしょうし。何より、その状態では風邪をひいてしまいますから」
びっしょりと肌に張り付いてしまった服と、前髪の先端から未だ水を滴らせているこの状態では、反論なんて出来るはずもなくて。
これからエヴァンの臣下として働くのであれば、色々と挨拶もしておかなきゃいけないだろうし、流石に事を急き過ぎたかな。
なんて反省しながら、私は先生の言葉に従うことにした。
◆
「で。何で私、お風呂に入れられてるんだろう」
あれから郊外から王都へ戻り、その足で王城に向かった私達であったんだけど、到着するや否や、王城勤めのメイドさん達に囲まれてあれよあれよいう間にお風呂に案内されていた。
タオルか何かで拭きさえ出来ればそれで良かったのに。
そんな一言を口にする余裕すらもなく、さあさあさあと案内されてしまったせいで遠慮の言葉も真面にいえず、こうして湯船に浸かる事になっていた。
「……先生の仕業、だよね」
私とエヴァンが何をして。
そしてその結果、どうなるのか。
それら全てを見事に予想してみせた上で、こうして準備をしていたのではないのか。
そう考えると、色々と腑に落ちた。
————風邪をひいてはいけませんので、最低でも20分はお浸かりになって下さい。
などと言って私をお風呂場に押し込んでくれたメイドさんがお風呂場の外で見張るように待機している為、出ようにも出られない。
だったらと、お湯に肩まで浸かりながら、私はお風呂を堪能する事にした。
それから10分程経過した頃。
何やらお風呂場の外が妙に騒がしくなり、二度、三度と制止を試みる声が聞こえてくる。
でも、投げ掛けられる声に構わず、やがてお風呂場の扉が勢いよく開かれた。
「はじめまして」
私の前に現れたのは、全くの面識のない綺麗な少女だった。
奥に控えるメイドさんは、やけに萎縮してしまっており、恐らく唐突にやってきた目の前の少女の地位は高いものなのだろう。
エヴァンと同じ、金糸を思わせるさらりとした金色の髪。それ故なのか。
不思議と、少女からは、エヴァンの面影が少しだけ感じられたような気がした。
「ヒイナさん、であってたかしら?」
どうやら、彼女は私の名前を知っているらしく、名を呼ばれる。
「……ええ。そうですけど」
「良かった」
投げ掛けられた問いにぎこちない動きながらも首肯すると、柔和な笑みが向けられた。
「じゃあ、少しだけわたしとお話ししない?」
何がじゃあ、なんだろうか。
そんな感想を抱いてしまうけれど、どう見ても断れそうな雰囲気ではなかった。
「わたしの名前は、シンシア・ヴェル・ロストア」
続け様に告げられる少女の正体。
その名前は、彼女が王族であるという事実を示していた。
「兄の事について、少しだけ貴女と話してみたかったのよ」
「エヴァンについて、ですか」
「そう」
流石にこの話の流れで、兄といえばそれが誰であるのかなんてものは容易に想像が出来てしまう。
「貴女を迎えに、わざわざ隣国にまで赴いていた筈の兄が帰って来たっていうじゃない? だから、貴女もいるんじゃないかってこれでも駆けつけて来たのよ?」
そう口にするシンシアは、言葉の通りお風呂場にまで駆けつけて来たのか。
着衣していたひらひらとした部屋着と思われる紺色のワンピースには、所々に皺が見受けられた。
「ただ、個人的にはその可能性は50パーセントくらいにしか思っていなかったのだけれども」
要するに、半分程の可能性でエヴァンは一人で帰ってくる羽目になると。
シンシアはそう予想していたと教えてくれる。
「だって、臣下になると約束を交わしていたとはいえ、十年以上前の約束でしょう? しかも、それは幼少の頃のもの。律儀に守る人間なんて、果たして何人いる事やら」
……私がその約束を律儀に守ろうとしていた人間だからこそ、彼女の言葉にどう返事をしたものかと返答に困ってしまう。
「だから、一度貴女に話を聞いてみたかったの。どうして、十年以上も前の約束を守ろうとしてたのか、を。まあ、ちょっとした好奇心というか、確認というか」
そう言いながらシンシアは私との距離をゆっくり詰めてゆき、やがて湯船にちゃぷんと音を立てて足だけ浸からせた。
「きっと、そこには理由があると思うのよ。何かしらの重要な理由が。だから、わたしは貴女に話を聞いてみたかったの。あの偏屈だった兄を変えた貴女という存在は、一体何であるのか、をね」
詰問、とはまた違うものであった。
本当に、興味本位で聞いてみたいだとか、そんな感じ。
でもだからこそ、困惑してしまう。
私にとっての理由は、約束をしたからとか。一緒にいると楽しかったとか。あの頃の思い出が忘れられなかったからとか、そんな曖昧な理由しか持ち合わせていなかったから。
「……好きとか、愛してるとか。そんな理由じゃないの?」
言葉を探しあぐねる私を見かねてか。
シンシアが意外なものを見るような眼差しを私に向けながら、更に言葉を重ねる。
だけれど、それらの言葉にはいまいちピンとこなかった。
ただ単に、一緒にいると楽しかったから。
そんな理由じゃダメなのかなって思って。
「……もしかして、兄から聞いてないの? その指輪の意味」
「意味、ですか?」
持っておいてくれ。
そう言われて渡されただけだから、シンシアの言葉の意図がよく分からなかった。
「……あの馬鹿兄。やっぱり何の説明もなしにアレを渡してるじゃない。……いい? ヒイナさん。その指輪は、王族の人間が婚約者に————」
そこまで言って、何故か彼女は微かに眉を顰めて口を閉じた。
次いで小さくかぶりを左右に振って、「……いえ。これはわたしが言うべき事じゃなかったわね」と、自嘲染みた言葉が紡がれる。
「……一緒にいたかったからとか。放っておけなかったからとか。そんな理由じゃ、おかしいですかね」
「放っておけなかった?」
「うまく言葉では言い表し辛いんですけどね」
私の記憶の中のエヴァンは、いつも馬鹿みたいに笑ってた。あと、私の事を事あるごとに「天才」って呼んでた。
当時はその理由がよく分からなくて放っていたけど、あれは自分が特別じゃないって言い聞かせる為のものだったんじゃないのかって、最近は思うようになった。
「目を離してしまうと、どこか手の届かない遠くに行ってしまいそうで。だから、交わした約束を破ろうとは思えなくて。それに私にとってもエヴァンは初めての友達でしたから、その、大切だった、と言いますか」
例えるなら、ガラス細工のような。
容易く砕き割れてしまう、そんな儚さが当時のエヴァンにはあった。
何より、彼が約束を破るような人間じゃないって、知ってたから。
だったら、それに応えてあげなきゃって。
「でも勿論、一緒にいて楽しかったから、っていうのが一番の理由ですよ。また、一緒にいられたらなって思ってたから約束を覚えていたわけですし」
「……成る程ね。確かに、あの頃の兄は色々と放っておけない人間だったわ」
目を離すと、何処か遠くに行って、それきり帰ってこないんじゃ。
そんな危うさは確かにあったとシンシアが私の発言を肯定してくれる。
「でも、そう。友達、ね」
少しだけ、不満げだった。
でも、あくまでそれは「少しだけ」。
私の目からは、反芻するその言葉に納得しているようにも見えた。
「そういう理由も、有りなのかもしれないわね」
湯に浸かる足を動かしながら、自分自身を納得させるようにシンシアは呟く。
「兄が連れて来た人がとんでもない悪女だったら、わたしがとっちめてやろう。なんて思っていたのだけれど、取り越し苦労だったみたい」
そう言ってシンシアは笑うけれど、私からすればその発言は全くもって笑えなくて。
「と、とっちめて!?」
「一応、あんなんでもわたしの兄だもの」
だから、このくらいは気に掛けて当然じゃない? と、つい動揺してしまった私に言葉が向けられる。
「でも、話す限りヒイナさんは良い人そう。……ねえ。貴女さえ良ければ、もう少しお話ししない? 次は兄の話題じゃなくて、ヒイナさんが暮らしていたリグルッド王国の事でも。わたし、この国からあまり出た事がなくて、他国の事をあまり知らないのよ」
これから顔を合わせる機会も増えるでしょうし、折角だからもっとお話ししましょう?
花咲いたような笑みを浮かばながら、そう口にするシンシアの申し出に、特別断る理由もなかったので私は頷く事にした。





