三十四話 判然としない心境に
……だけど、私のその言葉に対する返事はすぐにやっては来なかった。
口を真一文字に引き結び、何かに耐えるような仕草を見せるものの、ただそれだけ。
「……行くぞ、ヒイナ。時間がない」
だからか。
これ以上は何を言っても不毛であり、無駄。
そう言わんばかりに、エヴァンが私の手をひく。
彼の言う通り、こんな場所で時間を消費している場合ではなかった。
心なし、ルイスさんの持つ魔道具の反応は薄くなりつつある。
だからこそ尚更、こうして悠長に話している場合ではなかった。
そして私は、エヴァンの言葉に従ってルハアに背を向けようとして。
「……ハ」
私達の足を止めるように、嘲笑う声が一つ。
「元々、僕の側には誰もいないさ。誰も。誰一人として、僕の側にはそもそもいない」
震えた笑い声のように紡がれるその言葉は、自嘲のようでもあって。
そこで、漸く少しだけ分かった気がした。
どうして、ルハアという少年に、ルイスさんがこうも世話を焼こうとしていたのか。
その理由の一端が。
「王子という地位があるからこそ、ああして群がられてはいるが、それだけだ。本気で案じてくれる人間が離れていく? ……違うな。そうじゃない。そんな人間は、元々僕の側には誰一人としていないさ」
そこのルイスだってそうだ。
他の貴族も。誰も彼もがそうだ。
見えているのは、王子としてのルハアだけ。
なのにどうして、お前の言うそういう態度を貫いてはいけないのだろうか。
彼らが求めている姿こそがこれなのだ。
そして、そんな彼らを自己欲求を満たす為に利用しているのがルハア自身。だというのに、貫かないでいるべき理由がどこにあるのだ。
馬鹿らしい。
……表情こそ、普段のルハアらしく私を見下してはいたけれど、どうしてか。
今は、その表情がひどく哀れなものに見えて仕方がなかった。
「……もっとも、今更自分を見ろなどと言うつもりは毛頭ないがな。だが、お前にそう言われる事だけは耐えられん……ッ」
自分こそが正しいと信じて疑っていないお前のような人間が、何より腹が立つのだと告げられる。
「何も知らないから、お前達は好きに言えるんだ。レヴェスタも、ルイスも、ヒイナも。好き勝手に、自分の理想を僕にまで押し付けやがって……ッ!!」
激昂される。
でも、そこに「怖い」という感情は一切入り込まない。
だから。
「それは、本当に本当なんですか」
私はそんな一言を言えたのだと思う。
「そんな悲しい事を言う必要が、本当にあるんですか」
これまでがどうだったか。
王族、貴族にとっての常識。
そんな話をする気は微塵もない。
ただ、本当に、ルハア・ドルク・リグルッドを王子という無味乾燥とした駒としか見ていない人間だけなのかと問い掛けずにはいられなかった。
これでも、私は魔道師だ。
魔物の討伐に努めていた魔道師。
それ故に分かることも、幾つかある。
たとえばそれは、魔物の戦い方であったり、誰かの守り方であったり。
そんな私の目から見て、このカルア平原でそこまで強くもない人間を軽傷程度で逃し切る事が、はたしてただの駒としか見ていない者に出来るのだろうかと自問。
……恐らく、ほぼ不可能に近いと自答する。
それこそ、何がなんでも逃してやる。
そんな確固たる意志でもなければ間違いなく無理であった筈だ。
「貴方の事情は知らないし、そもそも私は知る気もありません。貴方だって、知られたくないでしょうし」
私とルハアの関係性は、言ってしまえばそんなもの。
淡白というより、険悪だ。
「でも、恩人の名誉の為に、もう一度だけ言わせてください。恥や外聞を投げ捨ててでも、貴方を助けたいと願っていた人は少なくとも一人はいた。いる事を、私は知ってる」
出来る事ならば、「ありがとう」の言葉一つでも言って欲しくあったけれど、無理ならば仕方がない。
ならばせめて、己が受けた恩のうちの少しくらい、ここで返せたら良いなと思いながら、
「私をどう思おうが、それは貴方の勝手ですが、それでも、この言葉だけは覚えておいて下さい」
私はそう言葉を紡いだ。
そして、私は今度こそその場から離れようとして。
「ルイス・ミラー公爵殿」
不意に、エヴァンが声を上げた。
「言い忘れていたんだが、ここから先は別行動にしよう。残りを助けに向かうのは、おれとヒイナ、それとノーヴァスの三人で十分だ。後は全員、ソイツの護衛に回してくれればいい」
そこまで言われて、漸く思い出す。
怪我人がいるならば、今すぐ助けに向かうべきだ。そう考えていた私であるけれど、元々の目的はリグルッドの王子であるルハアの救出。
であるならば、本来の目的は既に達成されている上、彼の護衛をして連れて帰る事の方が優先度は極めて高い。
ただ、そうした場合、間違いなく魔道具が示す残りの騎士達の命は助からない。
ならば、残された選択肢は必然、別行動しか無くなってしまう。
「……しかし」
「貴方の考えてる事は、よく分かる。本来ならば関係のなかった人間の方が危険な橋を渡り、巻き込んだ人間が安全な橋を渡る。それは、出来ない、だろう?」
エヴァンのその一言に、ルイスさんは渋面を見せる。胸の内で考えていた通りの言葉を言い当てられたのだと明らかに分かる反応であった。
私や、エヴァン、それに、先生。
ロストアの人間が、この先へ助けに向かうと言うならば、リグルッド側も相応の人間が同行すべき。リスクは互いに背負うもの。頼んだ側がリグルッドならば、それは尚更に。
その考えは、至極真っ当なものであった。
「きっと、おれが貴方の立場であっても同じ事を言っただろうし、そう在るべきだと思う。けれど、危険な魔物を相手にするなら、出来れば色々と気心の知れたヤツとだけの方が楽なんだ」
だから、貴方はルハアについていてくれればいいとエヴァンは言う。
そうしてくれた方が助かるのだと、あえて逃げ道を作る。その気遣いに気付かないルイスさんではなくて。
「……とてもじゃありませんが、この恩は返しきれませんね」
「そう気負う必要はないさ。おれがこうして動く理由は決して貴方の為でも、そこの王子の為でもない。そこのヒイナと全く同じ理由だ。おれも、恩人の力になりたい。ただそれだけだからさ」
恩人の恩人が偶々、ルイス・ミラーであった。
ただそれだけ。
いうなれば、偶然の産物に他ならないとあっけらかんとした様子でエヴァンは言う。
けれど、ルイスさんの立場が、その言に殊勝に頷く事を妨げていた。
「思うところがある事は分かる。容易に頷けない事も分かる。だから、条件を付けよう」
そして、エヴァンは奪い取るようにルイスさんが手にしていたベラルタさんから渡されていた魔道具をひょい、と手に取る。
「もう二度と手放す気はないが、それでも、いつかヒイナが困ってた時、真っ先に手を差し伸べてやってくれ。それが今回あなた方を助けたおれへの駄賃だ。それで構わないだろう? ルイス・ミラー公爵殿」
その発言に対する返事は、イエス以外受け付けていない。
そう言うように、「急ぐぞ」というエヴァンの言葉に従って今度こそ、私達は魔道具が指し示す場所へと向かって移動を始めた。
* * * *
「……あいつは、阿呆だな」
そして、ヒイナとエヴァン、ノーヴァスがいなくなったタイミングを見計らってポツリとルハアが呟いた。
そこには、変わらぬ「侮蔑」の感情と、加えて、「困惑」が。
「底抜けの馬鹿だ。見捨ててしまえばいいものを」
ああして叫び散らしてしまっていたが、冷静になると自覚出来てくる二つの事実。
己が平民なんぞの手を借りてしまった事実と、不要であるからと叩き出した筈の平民が己を助けに来たという奇想天外な事実だ。
故に、ルハアは底抜けの馬鹿と言う。
「お前もお前だ。僕が死ねば、王位継承権はお前に渡ったというのに。そうなれば、お前の好きな平民が貴族と共に在れる国家とやらを存分に作れた事だろうに」
嘲りながら、口にする。
平民は必要ない。
己は、平民とは違うのだ。
そんな考えは未だ健在。
だからこその、この言い草であったのだが、言葉を向けられたルイスが気にした様子は一切なく。
「ええ。そうですね。そういう未来も悪くはなかった。国を立て直すならば早い話、王になれば良いだけですからね」
その資格がルイスにはある。
だからこそ、ルハアが馬鹿をしたこの瞬間こそが絶好の機会であった筈なのだ。
しかし、ルイスはこの機会をドブに捨てるどころか、あろう事か拾い上げた。
手を差し伸ばし、進んで助ける事を選んだ。
「ただそれでも、見捨てる理由にはなりません。何より、貴方にはして貰わなければならないケジメがある。それをさせずに死なせてやる程、私もお人好しではない」
ケジメとは、今回の件についてだろう。
王に報告か? あぁ、そうか。
この失態をネタに、王位継承権を取り上げる腹積りだったのか。
そんな考えが頭の中で去来する中、
「ヒイナさんに謝らないまま、貴方を死なせてやる訳にはいきませんからね」
一瞬、ルハアの脳内が真っ白になった。
呆れて物も言えないとはこの事か。
そんな事を思いながら、
「……その為に、そんな下らない事の為に僕を助けたのか」
「下らなくなどないでしょう。悪い事をしたならば、謝る。常識ですよ、ルハア」
「…………」
怒るだとか、嘲笑うだとか。
普段のルハアなら迷わず選び取るであろう数々の行動、その存在全てに背を向けてしまう程に、ルハアは毒気を抜かれてしまっていた。
そんな下らない理由で、他国の王子にまで頼み込み、己の命まで危険に晒したのかと。
「……訂正しよう。底抜けの馬鹿が二人だ」
「ひどい言い草ですね。仮にも私達は、貴方の恩人だと言うのに」
そして、沈黙が場に降りる。
やがて、会話が途切れた事で今一度、ルハアの脳裏を過ぎる先程のヒイナの発言。
それを咀嚼するように吟味して。
「……馬鹿らしい」
嫌悪を隠そうともせずに罵った。
何よりルハアは、ルイスの在り方に腹が立っていた。
付き合いがそれなりにあったからこそ、視界に映るルイスが紛れもない本心からそんな馬鹿馬鹿しい事を言っているのだとルハアは理解していた。
だからこそ、先程のように怒り散らそうとも、怒り損だと自己完結させながら、ルハアは己の身体に視線を落とした。
それなりに傷のついた肢体。
少し前まで、死がすぐそこにまで迫っていた事もあってか。
絶え間なく震えていた筈の身体の震えが止まっている事に今更ながらに気づく。
そして、そうなった理由が「安堵」といった感情からくるものであると理解をして。
毒気を抜かれていた事もあってか。
心境の変化でもあったのか、更に数秒ほどの沈黙を経た後、
「…………叔父上」
ヒイナの言葉に背を向けながら。
しかし、耳にこびりついて離れないあの一言を否応なしに思い返しながら、呟いた。
その呟きは葉擦れの音程度の小さなもの。
聞こえていても、いなくても構わない。
そう言わんばかりのものであって。
「今回、だけだ。今回、だけ」
言い訳をするように。
「……助けに来てくれた事、感謝する」
感謝の言葉が声となって大気を揺らした。
多くは語らない。
というより、語れなかったのだろう。
その理由は、罪悪感か、プライドか、はたまた、もう一歩踏み出す勇気が足りなかったのか。
風鳴りに紛れて呆気なく攫われる程、小さな呟き。しかしながら、ルハアの視界からはルイスがまるで先の呟きを聞いていたかのように笑みを浮かべて反応しているように見えて。
浮かんでくる感情から目を逸らすべく、気を紛らわすように一瞬だけ、ルハアはひたすらに青い空を見上げた。





