二十話 氷竜
* * * *
温度の低い風が、頰をさらりと撫でる。
外界から隔離された洞窟という場所にかかわらず、突然吹かれたひんやりとした風を前に、鳥肌のようなものが登ってきた。
そして、洞窟に足を踏み入れてから数十分程たった頃。私達の目の前に、〝ナニカ〟が現れた。
それは大きな、大きな氷塊のような。
でも、不自然に鎮座するそれは氷塊ではないのだと、すぐ様理解する。
その氷塊は、まるで生き物のように微動していたから。
「————運が良いな」
全長10メートル。20メートル。
……ううん、多分、もっと大きい。
そう心の中を漏らす私とは裏腹に、エヴァンは楽しげに笑っていた。
目の前にとんでもない存在が現れた事よりも、これで事が片付く。
その感情の方がきっと大きいんだろう。
洞窟の最奥は随分と開けていて。
周囲を確認すると、漸く風が吹かれた理由が判明する。
「しかし成る程、あそこから入って来たのか」
エヴァンの視線と、私の視線が同じ場所へと向いた。そこには大きな穴が空いていた。
でもそれも刹那。
目を離してはいけないと本能的に理解をしていたからか。一瞬前まで氷塊と勘違いしてしまった青白に染まった巨体に再び目を向ける。
「————氷竜」
氷を想起させる色合いの身体に、折りたたまれた透き通った翼。
目の前にいるだけで感じられる圧倒的な存在感。それはまさしく、魔物の頂点とも謳われる竜に相応しいものであると感じられた。
たとえそれが、背を向けられた状態であっても、尚。
「……待って、エヴァン」
しかし、何故か感じられる違和感。
そこに引っ掛かりを覚えた私は、今にも戦闘態勢を取ろうとするエヴァンを、制止する。
「様子が、おかしい」
「……様子?」
いくら私達が取るに足らない存在であると思われていたとしても、明らかにこの対応はおかし過ぎる。
何より、時折、耳を澄ますと聞こえてくる苦悶に似た呻き声はきっと聞き間違いではない。
「うん。多分この竜————怪我してる」
こちらに背を向けている為、どこを怪我しているのか。耳朶を掠めるこの弱々しいうめき声は本物であるのか。何もかもに確かな証拠はない。
でも、きっとこの竜は怪我をしている。
どうしてか、そんな確信があった。
そして、見るも痛々しいその事実に、私はほんの小さな同情を抱いた。
「……話し合いとか、出来ないかな」
魔物に区分されているとはいえ、竜は特別な存在である。
曰く、人と会話を交わせるだけの知能も備わっている。
曰く、無闇矢鱈に人を襲わない。なんて話も聞く。
〝メヘナ〟の存在は兎も角、あの吹雪は目の前の竜の仕業だ。だから、会話を交わし、話し合いで平和的に解決出来たりしないか。
怪我を負っていると聞けば、一見好機にも思えるけど、宮廷魔道師として魔物の相手をそれなりにしていたからこそ、言える事だってある。
……死に物狂いと化した竜と戦うのはどう考えてもリスクが高過ぎる。
だから、出来るならば平和的に。
そう、エヴァンに提案をした直後だった。
「『……我に同情を向けるか、矮小な人間風情が』」
聞こえてきたのは、怒りの滲んだ声。
ずしん、と腹に響く低い声だった。
それが竜の仕業であるのだと、すぐに分かった。
「『縄張り争いに負け、情けをかけられ、逃がされた我を。あろう事か、人間であるお前らごときまでもが』」
ずずず、と音を立てて地面が揺れた。
そんな感想を抱きながら、私達に背を向けていた竜は、此方と向き合うように身体を動かす。
身体の至る場所が氷のように凍っていたからか、傷らしい傷は一見すると見受けられなかった。でも、目を凝らせばよく分かる。
氷細工のように綺麗で、どこか透き通ったその身体は、赤い線があちこちに存在しており、凍らせる事で傷を無理矢理塞いではいたが、痛々しいまでに傷だらけであった。
「……吹雪を起こす理由はそういう事だったか」
隣にいる私にだけ聞こえる小さな声量で、エヴァンは呟いた。
目の前の氷竜は傷を負っている。
それも、ちょっとやそっとでは済まないレベルの傷を。
だから身体を休め、癒す時間が必要だったのだ。だから、吹雪を起こし、〝メヘナ〟を谷底に集めて人を近寄らせないように徹底していたのだろう。
「……ここから立ち退いてはいただけませんか」
口調を丁寧なものに変えながら、私は様子を窺うようにそう懇願した。
これが、普通の魔物に対してであればこんな気の迷いとしか思えない言葉を口にする事は万が一にもなかった。
でも、一応とはいえ言葉は通じる。
ならば、駄目元でも余計なリスクを背負うより話し合いにもっていくべきであると私は考えた。
何より、竜という生き物はプライドがとてつも無く高い種族。
約束を取り付けさえすれば、反故にされる可能性は極めて低い。それ故の申し出だった。
「『話にすらならん』」
硝子細工のような瞳が、私を射抜く。
そして続け様にやってくるは、限界まで圧搾された殺意の奔流。
「舐めるな」と言わんばかりに放たれるそれを前に、思わず身震いをしてしまいそうだった。
「『……貴様はどうやら、勘違いをしているらしい』」
————何を。
私が問うより先に、竜は嘲るように言葉を続ける。
「『我は怪我を負っている。近付けたくなかった。だから、吹雪を起こした。今、貴様が抱いてるであろうその考えは間違いではない』」
「なら————」
「『だが、どんな理由があれ、どうして我が貴様なんぞの言葉に賛同しなければならない? 何故此方が譲歩せねばならない? 立ち退かねばどうするという? 戦うか? まあ、それも良かろうて』」
同情される覚えはない。
誰かからの施しを受けるつもりも、ましてや、ここから立ち退けという提案を受け入れる気は無いと。
……交渉は、決裂。
ううん、きっと、そもそも交渉の段階にすら入る事を許されていなかった。
誰かの命に従うくらいならここで果てた方が万倍マシだ。言外にそう宣う目の前の氷竜に、妥協する意志は微塵も感じられない。
……でも、それでも窮鳥懐に入れば、に似た感情なのか、戸惑いが若干入り込む。
魔物とはいえ、見れば見るほど傷だらけの竜を相手に討伐を。ともなると気が引けてしまう。
それも、目の前の竜はあくまで吹雪を引き起こしてるだけ。人を襲ってはいないという部分がその感情を余計に助長してくれる。
「ヒイナ」
隣でエヴァンの声が聞こえた。
うん、分かってる。ちゃんと分かってる。
こうしてみっともなく逡巡しちゃってるけど、分かってるから。
そんな事で悩んでる場合じゃないって。
言い訳がましく心の中で言葉を繰り返しながら、竜を見詰め返す。
立ち退く気は無い。
だったら、残された選択肢はただ一つ。
このまま吹雪を起こされ続けていては、ミラルダ領の領民達の生活が立ち行かない。
加えて、今でこそ谷底に篭ってくれている〝メヘナ〟であるが、その数は時を経るごとに着実に増えていっていた。
今、対処しておかなければ後々、取り返しのつかない事態に陥る可能性は多分にあり得る。
————だったらほら、答えはもう一つしかない。
「————」
ちょうど決心がついたその瞬間だった。
ぱきり、ぱきりと音を立てて私達の足下が凍り付いてゆき、急激に温度が低下してゆく。
反射的に、私とエヴァンはその場から飛び退いていた。
「……ごめん、エヴァン」
交渉に失敗した事に対する謝罪じゃない。
これは、余計な事を考えた事に対する謝罪だ。
「いや、気にしなくて良い。ヒイナが話し掛けてなかったら氷竜の事情を聞けなかったかもしれないだろ。今後の事を考えれば、寧ろこれは良い選択だった」
慰めの言葉がやってくる。
……エヴァンはそこまで気にしてないようだけど、私の先程の選択はきっと間違いだった。
「『……舐められたものだな』」
呆れ半分、怒り半分。そんな声音だ。
「『貴様、本気で話し合いで解決するつもりだったのか』」
話し合いを持ちかけ、その間に不意をうつつもりでもなく、本心からそう思っていたのだと見抜いてか、竜が指摘をしてくる。
……それの何が悪い。
別に私は戦闘狂ではないし、竜を倒したなんて栄光も欲してない。ただ、事態が解決すれば良いと願っているだけ。
そしてその手段として私は出来る限り、大事な人間が傷付かない選択を選びたいってだけだ。
「……私の正気を疑ってるみたいですけど、私から言わせれば、貴方の正気の方が疑わしいですけどね」
魔物とはいえ、一応、私はコミュニケーションが最低限取れるから。
という前提の元に言葉を交わそうと試みた。
対して、目の前の竜は傷だらけ。
休養を取るしかない程疲弊しているにもかかわらず、こうして今にも戦闘の気配を漂わせている。
馬鹿はどっちだって言ってやりたかった。
そして、会話は終わり、剣呑な空気が色濃くなる。
……そこからは、一瞬だった。
————〝第五位階火魔道〟————。
声に出すまでもなく、目の前の氷竜が何かを仕掛けようとした事を見て取り、すぐ様燃えるような赤の魔法陣を私の視線の先に浮かばせる。
続け様に、二、三と行使し、そこにエヴァンが当然のように「合わせる」。
増幅する『魔道』の威力。
たとえ竜であれ、今の状態で無かったとしてもただでは済まない。
そんな予感を抱かせる程の連携。
……だったのに。
「——————!!!」
直後、轟く言葉にならない戦火の咆哮。
喉を震わせ、鋭利な牙を覗かせながら開かれた顎門から放たれる叫び声に、バリン、と音を立てて魔法陣が壊れ、無効化される。
それは竜の恐るべき力量。
その本領の片鱗であった。
「……おいおい」
竜と対峙する機会なんてものは、普通に生活していれば、滅多な事では恵まれない。
だから、彼らの手札は分からない上、どこまで通用するのかなんてものは判断がつくわけがない。
恐らく私に限らず、エヴァンも竜と相対したのは初めてだったのだろう。
見せる反応から、それはすぐに分かった。
「……どういう原理なんだろうね」
ポツリと呟く独り言。
『魔道』を無効化だなんて、聞いたことが無い。でも、事実から目を逸らす訳にもいかなくて、雑考。
そしてそんな間に、折りたたまれていた翼が広げられ、次いで突風と言い表すべき風が吹き荒れる。
程なく、あまりに大き過ぎる体躯が、私達の視界に映り込んだ。
魔物の頂点に君臨する絶対的強者。
竜の一種、氷竜が私達に牙を剥いた。





