十九話 友達だから
* * * *
時は少しだけ、遡る。
転移陣の敷かれたロストア王国王城。
その一室にて。
「————不思議な関係よね。貴方達三人の関係って」
覗き見をしていた一人の少女は口を開き、己の存在を主張せんと、殊更に大きく足音を立てながら部屋へと足を踏み入れた。
彼女の名を、シンシア・ヴェル・ロストア。
この国の王女にあたる人物であった。
「……ええ。そうですね」
彼女の言葉に返事をしたのはロストア王国にて、宮廷魔道師長の座につく人間。
エヴァンから「先生」と呼ばれている男、ノーヴァス・メイルナードだ。
「私も、そう思いますよ」
エヴァンとヒイナの関係ではない。
エヴァンとヒイナと、ノーヴァス三者の関係。
それを変わっていると指摘するシンシアの言葉に、少しだけ苦笑いを浮かべながらも彼は躊躇いらしい躊躇いもせず、肯定していた。
「貴方に限って〝洗脳系〟の『魔道』を掛けられてるとは誰一人として露程も思っていないけれど……たった三ヶ月程度の関係だったんでしょう?」
ヒイナさんが悪い人間でない事は知ってるけれど、それでも貴方含めて気にかけ過ぎよ。お父様だって言葉にこそしてないけど、不安がってる。
と、シンシアは口にした。
「逆ですよ。逆」
「……逆?」
「あの頃のエヴァン様の閉ざした心を、ヒイナさんはたった三ヶ月で意図も容易く開いてみせた。幼少の頃から護衛役を担ってる私ですら、踏み込めなかった場所に、彼女は三ヶ月で踏み込んでみせた」
少なくとも、ノーヴァスからしてみれば、その少ない三ヶ月であったが故により一層濃く、記憶の中にヒイナという少女の存在が焼き付けられる事となった。
「まだシンシア様は幼かったとはいえ、あの頃のエヴァン様の荒み具合と言ったら……ご存知でしょう?」
「……それ、は」
荒み具合。
と、ノーヴァスは言っているが、別に手が付けられない程、当時のエヴァンが荒んでいたわけではない。寧ろ、これ以上なく完璧で、大人が子供に望む理想を体現したかのような少年だった。
なんて事はない大人しい少年だった。
愛想とは無縁であったが、それでも、どこまでも真面で、完璧で、完成されていた。
……あくまで、外側だけは。
「心を開いていたのは私にだけ。本音を溢すのも私にだけ。けれど、陛下にこの事は何があろうと相談は出来ない。何故なら、エヴァン様の信用を私が裏切ったその瞬間に、正真正銘彼は独りになってしまうから」
信用しているから本音を吐露してくれる。
だが、時にその信用は毒と化す。
エヴァンの苦悩を知り、それに対して何か行動を起こそうと思えど、それらは全て「裏切り」となってしまうからだ。
「そして結局、私はエヴァン様の力らしい力にすらなれず……最後は案の定、溜め込んでいた不満が爆発してしまいました」
それが、今から十年以上も前の話。
エヴァンと、ヒイナが偶然出会ったあの日の話だ。
「ですが、あちこちを探し回り、漸く私がエヴァン様を見つけた時、エヴァン様は一人では無かった」
見慣れない少女がいたんです。
私以外には、絶対に素の感情を見せないエヴァン様が、身体を水浸しにして年相応で等身大の態度で接して笑っていました。
そう語るノーヴァスの表情は、シンシアの目から見ても、どうしようもなく嬉しそうだと感じられるものだった。
「……それが、ヒイナさんだった、と」
「ええ」
そこで、会話が途切れる。
眉間に皺を寄せて、何やら黙考するシンシアと、昔の思い出に浸るノーヴァスの間に沈黙が降りた。
やがて十数秒ほど静寂は続き、何を思ってか。
「……一応、勘違いを避ける為に言わせていただきますが、ただの天才だけなら、エヴァン様はあそこまで心を開く事はありませんでしたよ」
そしてだからこそ、ノーヴァスもまた、ヒイナを気にかけるようになったのだと言う。
「……違うの?」
懸念は的中。
案の定、天才という同類であったからこそという結論を出しかけていたシンシアに、ノーヴァスは、はい、と首を縦に振った。
「確かに、その事実がなければ、はじめの一歩すら踏み出せ無かったであろう事は事実です。ですが、それはあくまでもキッカケにしか過ぎません」
そして思い起こされる十年以上昔の情景。
心配であるからとエヴァンとヒイナの様子を頻繁に盗み見、盗み聞きしていた第三者のノーヴァスですら、決して忘れられない言葉のやり取り。
エヴァンの従者を、ヒイナに務めて欲しい。
そう心から願うキッカケとなった出来事だ。
『偶にさ。分からなくなるんだ。本当のおれはどっちなのかって』
それはエヴァンとヒイナと出会って一ヶ月程経ったある日の出来事。
その時既に、ある程度エヴァンはヒイナに心を開くようになっていた。
でもやはり、彼と彼女の間には僅かな遠慮のような、距離感のような、ぎこちなさがあった。
どうしても、抜けきれていなかった。
『本当って?』
『おれはどう在るべきなんだろうって、話。最近、よく思うんだ』
その質問の意図に、ヒイナは気づいていなかった。それもその筈。エヴァンの身の上話を彼女は一切聞かされていないのだ。
分かるわけがない。
しかし、盗み聞きをしていたノーヴァスにはエヴァンが何を言いたいのか。
すぐに理解が及んだ。
『求められてる姿ってのは、よく分かる。どうすれば良いのかも、よく分かる。でもそれだと、つまらないし、くだらなく思える。だけど、それが正しいっておれは知ってしまってる。でも、おれにとってはたとえ間違っていようと、今のおれが良くて。……ほんと、どうしたらいいんだろうな』
同じ年齢の子供と比べても、頭抜けて聡い少年だったからこそ、エヴァンはそんな葛藤に苛まれていた。
ヒイナと過ごせば過ごすほどエヴァンにとっての『今のおれ』に秤が傾いてゆく。
しかし、怒りに身を任せて森に足を踏み入れたあの日以降、時折、ヒイナと共に過ごすのではなく、本来の役目でもある王子としての役目を果たすたび、エヴァンは現実に引き戻される。
そして苛まれる。
どちらが正しいのか。
自分ははたしてどちらを選ぶべきなのか。
まだ十年も生きていない少年に、上手く世渡りをすればいい。
という選択肢はそもそも存在していなかった。
肝心な部分はやはり、年相応だった。
『————難しい話は、私にはわかんないよ』
一見すると、それは投げ掛けられたエヴァンの問いを答える気がないという拒絶にも思える。
だが、続けられる一言によって、それは違うのだと思い知らされる。
『でも、エヴァンが思うようにすれば良いんじゃないかな』
少なくとも、私はそう思った。
それが、ヒイナの答えだった。
『おれの、思うように?』
『うん。エヴァンの思うように。エヴァンの選んだ道なら、私はそれを応援するよ。他の誰かが否定したとしても、私が肯定してあげる』
————だって、私とエヴァンは友達だもん。
その一言で、ヒイナが面倒臭がって返事を曖昧なものにしたわけでないとエヴァンも理解したのだろう。
少しだけ普段よりも目を大きく見開いて、瞠目していた。
『それに、エヴァンはエヴァンだよ。どれが本当だなんて、私にはよく分かんない。でも少なくとも、私は今、目の前にいるエヴァンの友達だから。だから、ね。安心してよ。私は誰が何と言おうと、この不器用で、偶に意地っ張りになるエヴァンの友達なんだから————』
ヒイナ自身はもう忘れてるかもしれない。
ただの慰めの言葉の一つだったのかもしれない。でも、そんな言葉一つで、あの時のエヴァンがどれだけ救われたか。
独りじゃないと教えてくれる。
たった、それだけの事。
でも、エヴァン・ヴェル・ロストアはあの時、間違いなくヒイナという少女に救われたのだ。
「……まあ、そんな事実一つであの兄さんがあそこまで変わるわけがないものね」
空白の時間。
そしてややあって、シンシアは呆れ混じりに口を開いた。
ヒイナと会うまでは、不気味なくらい完璧な王子だった筈のエヴァンは、ロストア王国に戻ったその日に、初めて我儘を口にした。
————大事な、友達が出来たんだ。いつかあいつを臣下に迎えたい。
そんな、我儘を正真正銘の屈託のない笑みを浮かべながら、父である国王に向けて告げたのだ。
その日を境に、完璧な王子は消え、代わりにちょっと我儘で、やんちゃな王子が生まれた。
それでもって、いつかあいつを臣下に迎えるんだと、嬉しそうに、楽しそうに口癖のようにそう口にする王子様が。
「はい。エヴァン様を変えたのは、他でもないヒイナさんです。ならば、私は私の信じる最善の為に力を尽くすのみです」
それこそが、ヒイナを気に掛ける理由であるのだとノーヴァスは答えた。
少なくとも、ノーヴァスの目から見てエヴァン・ヴェル・ロストアは孤独な人間だった。年相応に、我儘を言い合える相手は誰一人としていなかった。
そんな彼に出来た初めての拠り所。
仕える人間の幸福を望むのは当然じゃないかと。
「それに、ああ見えて、エヴァン様は不器用ですから。側でお支えしてあげたいんですよ」
————エヴァン様は、ああ見えて恥ずかしがり屋ですから。
ヒイナとの思い出を、頑なに他の人間には話そうとはしないせいで、こうして変に勘繰られる事になった意地っ張りで、不器用な王子の顔を脳裏に思い浮かべながら、満面の笑みでもってノーヴァスは答えた。





