十二話 ネーペンス
ぐわん、と視界と足をつける地面が揺らいだ。
そんな奇妙な感覚に見舞われる。
そして不安定になる平衡感覚。
けれども、エヴァンの手を握っていたお陰で倒れてしまう、とまではいかなかった。
「————ご無沙汰しております。殿下」
不意に私の鼓膜を揺らす声音。
背後から聞こえてきたそれは、あまり感情の起伏の感じられない淡白なものであった。
しかし、それは決して不機嫌であるから。
といった理由によるものではないのだろう。
「久しぶりだな、ネーペンス」
返事をするエヴァンの声が、微かに楽しそうに弾んでいた事から私はそう判断をする。
加えて、彼がネーペンスと呼んだ事で先程の声の主がネーペンス・ミラルダさんなのだと私は理解をした。
「レヴィのやつに、誰か人を寄越してくれと頼んではいましたが、まさか本当に殿下がお越しになられるとは」
レヴィ・シグレア公爵。
先生曰く、今回の魔物の討伐の話は彼を介して私達に届けられたものらしく、ネーペンスさんの言葉を聞きながら、そりゃそうだよねって同意をしつつ私は振り向いた。
まず初めに映ったのは、夜を思わせる黒曜石のような色をした髪と瞳だった。
顔のつくりは精悍で、オールバックに整えられた髪のせいで武人。
という印象が強く、愛想とは無縁のつんと澄ました表情が余計に私の中のその感情を増幅させる。
私が振り向いたからか。
一瞬だけ目があったような気がしたけれど、それも刹那。気付いた時には既に、彼の視線はエヴァンへと向き直っていた。
「偶々、手が空いててな。話は……もう伝わってるみたいだな」
ネーペンスさんが手にする手紙のようなものを確認した後、エヴァンは杞憂だったかと言わんばかりに安堵の表情を浮かべていた。
〝第九位階光魔道〟は人だけでなく物も自由に送る事が出来る『魔道』。
故に恐らく、その手紙で事の詳細は既に知らされていたのだろう。
「ええ。それについてはノーヴァスから既に。ですが————」
そして、ネーペンスさんの視線がエヴァンから外れ、向かった先は————私であった。
「本当に、そこの彼女も同行させるおつもりですか」
きっと、先生からの手紙を読んだのであれば私がどうしてここに居るのかについても知っているのだろう。
その上での、確認。
多分、ネーペンスさんは私の同行はあまり良くは考えてないんだろうなって思った。
でも、貴族であればそれが普通の感性。
だから、特別どうこう言うつもりはなかった……のに。
「ああ。ヒイナは俺の臣下だからな。何より、こいつは『天才』だ。有能な人材を腐らせてると愚鈍に見えるだろうが?」
俺は、愚鈍じゃないんだ。
って、さも当然のように何処か嬉しそうに言葉を紡ぐエヴァンのせいで、黙ってやり過ごそう。
なんて考えていた私の予定が早速ぶち壊されていた。
「……成る程」
ほら、エヴァンのせいでネーペンスさんが複雑そうな表情浮かべてるじゃん。
そんな余計な言葉をあえて付け加えなくても良かったのに。
目で頑張って訴え掛けるけど、肝心のエヴァンはどこ吹く風と破顔するだけ。
「話は分かりました。殿下がそう仰るのでしたら私からは特に何か咎めるつもりはございません。ただ、大変恐縮ではありますが、討伐及び、魔物発生の原因を探るにあたって一つだけ条件が」
「条件?」
「ええ。今回に限り、私も同行させて頂きます」
そう言われるとは露程も思っていなかったのか。ネーペンスさんのその言葉に、エヴァンは首を傾げて疑問符を浮かべていた。
「……ネーペンスが、か?」
「はい。真偽の程は定かでないとはいえ、今回の一件は二人だけでは心許なく」
ですから、ご容赦下さいと締めくくられる。
「……ネーペンスは、二人だけじゃ危険だって言いたいのか」
つい先程、先生から心配はない。
と言われた矢先でのこの発言。
だからか、少しだけ思うところはあったけれど、ネーペンスさんはとてもじゃないけど冗談を言ってるような様子ではなかった。
きっと、エヴァンが問い返したのもそれが理由。
「部下からの報告故、真偽の程はまだ確かめておりませんが、曰く————竜を見たと」
「竜、ですか」
下手に口を開かないでおこうって思っていたのに、ネーペンスさんのその発言に、私は反射的に反応してしまっていた。
竜。
といえば、魔物の中でも最上位に君臨する存在。翼をはためかせ、空を自由に飛び回る彼らの全長は、人間のそれを優に超えている。
そして、その巨体から放たれる息吹の威力は推して知るべし。
種類によって異なりはするものの、竜の討伐には腕利きの魔道師が少なくとも30人は必要、などと言われている。
ネーペンスさんが同行する、と口にするのも竜が絡んでいるのであれば無理もなかった。
「竜のせいなのか。それは定かでありませんが、最近は悪天候が続いており、生憎の空模様です」
そう言われて、部屋にあった窓に視線を向けてみると、外は暗澹と蠢く雲によって光は遮られ、その上、吹雪いていた。
「数日程度で収まる気配はありませんし、この状態で向かうともなれば、二人では心許ないでしょう」
正論だった。
「確かに、この悪天候の中で竜を相手取るともなると不安は拭えないよな」
この吹雪を引き起こしてるとすれば、竜の中でも下位の存在とは考え難い。
普通に考えれば、ネーペンスさんを入れてもまだ、心許なくもあった。
しかし。
「だけど、それはおれ一人だけであった場合の話だ。たとえ竜が出てこようと、微塵も不安なんてないな」
エヴァンはそう抜け抜けと言い放つ。
虚勢でも、取り繕いでもなく、本当に本心からそう言ってるのだと不思議と分かった。
「が、流石にネーペンスの立場上、おれとヒイナの二人で向かわせるわけにもいかないか」
苦笑いを浮かべながら、エヴァンは言う。
これはミラルダ侯爵領の問題である上、エヴァンは王子という立場。
流石に、ネーペンスさんの立場がエヴァンと私二人で討伐に向かわせるという事を幾ら大丈夫と言われたとしても、認めるわけにはいかないのだろう。
それを悟り、口を開いたエヴァンの言葉に「恐縮です」と言葉が返ってきていた。





