第32話 小さな距離
午後、図書館の空気は静かで、どこか甘やかな熱を帯びていた。
高い天窓から差し込む光が、埃の粒を金色に染め、静謐な世界を作り出している。
リリアーナは、窓際の机で本の整理をしていた。
けれど、ページをめくる手は何度も止まり、指先がわずかに震える。
――あの日のことが、頭から離れない。
脚立から落ちかけた瞬間、彼の腕に引き寄せられた。
そのときの体温、耳元で響いた声、胸の鼓動。
どれもが焼きついていて、思い出すたびに頬が熱を帯びた。
「……集中、しないと」
小さく呟いて首を振る。
けれど、思考は現実に戻りきらない。
そんなとき、扉の軋む音が静けさを破った。
「リリアーナ」
その声に、反射的に顔を上げる。
陽の光を背に、銀灰色の髪をわずかに揺らす男――レオニスが立っていた。
見慣れたはずの姿なのに、今日はどこか違って見えた。
鎧の代わりに軽装をまとい、肩の力を抜いた彼は、まるで別人のように柔らかかった。
「レオニス様……」
驚きとともに、心臓が跳ねる。
「お仕事は、お忙しいのでは?」
「今日は休みだ。少しだけ、君に渡したいものがあって」
差し出されたのは、一冊の古びた本だった。
手入れの行き届いた革の表紙には、複雑な金の文様が刻まれている。
見覚えがあった。以前、修復を希望しても叶わなかった希少書だ。
「これ……王立書庫に保管されていたはずです」
「そうだ。正式に許可をもらって、一時的に借りてきた」
「まさか、レオニス様が……?」
「君が気にしていたからな」
その一言が、静かに胸に刺さった。
言葉を失い、リリアーナはただ本を見つめる。
――彼が、わたしのために動いた。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「ありがとうございます……でも、そんなこと、団長のお立場で……」
「騎士団長である前に、俺は一人の男だ。君が困っているなら、助けたいと思うのは当然だろう」
「……レオニス様」
静かに名を呼ぶと、彼はわずかに目を伏せた。
その表情が優しく、どこか切なげで――息をすることさえためらわれるほど近く感じた。
沈黙が落ちた。
風が窓から入り込み、亜麻色の髪を揺らす。
その髪の一房が頬をかすめ、レオニスは無意識に手を伸ばした。
けれど、その指先が触れる前に、彼は我に返るように拳を握った。
「……この間のこと、怖かっただろう」
彼の声は低く、掠れていた。
「平気です」
そう答えながらも、リリアーナの声にはわずかに震えが混じっている。
「君はそう言うが……平気な顔をして、無理をする」
「……」
「次は、俺を頼れ」
真っすぐな眼差しが、彼女を捉えた。
その強さと誠実さに、胸の奥が熱くなる。
――どうして、そんなふうに言うの。
この人の言葉ひとつで、心が揺れてしまう。
リリアーナは俯き、本を胸に抱いた。
「……わたし、あの時、ほんとうは怖かったんです」
「……ああ」
レオニスが小さくうなずく。
「でも、レオニス様が助けてくださって……それだけで、安心しました」
「安心、か」
彼の唇がわずかに緩む。
「……なら、もう少し頼らせてもらえるように努力する」
その言葉に、リリアーナは顔を上げた。
ふと、視線がぶつかる。
まるで時間が止まったように、互いの瞳の奥が映り込む。
けれど次の瞬間、レオニスは視線を逸らした。
「……すまない。勤務中に長居しすぎた」
「いえ……来てくださって、嬉しかったです」
言ったあと、恥ずかしさが込み上げてくる。
彼の背中が扉の方へ向かう。
しかし、去り際に彼はふと立ち止まった。
「リリアーナ」
「はい?」
「その本……君に似ている」
「え?」
「一見静かで穏やかだが、触れれば驚くほど温かい。大切に扱わなければ、たちまち壊れてしまう」
そう言い残し、レオニスは静かに扉を閉めた。
残されたリリアーナは、胸に抱いた本を見下ろす。
表紙の金の模様が、光を受けて淡く揺らめいた。
――“君に似ている”。
その言葉が耳から離れない。
顔が熱くなり、思わず胸の前で本をぎゅっと抱きしめた。
図書館の中には、再び静寂が戻った。
けれどその静けさの中で、彼の声と眼差しだけが、いつまでも消えなかった
じれったい二人
はよくっつきなさいよ(@_@)




