第30話 揺らぐ静寂
リリアーナは高い本棚の前で、脚立に上って本を整理していた。
最近は蔵書の調査依頼が増え、王城からも追加の資料を求められている。
その報告書を受け取ったのは、他ならぬレオニスだった。
彼はいつものように書類を届けに来ていたが、今日はどこか落ち着かない様子で彼女を見つめていた。
「……高い場所は危ない。下の段は俺がやろう」
低く落ち着いた声に、リリアーナは一瞬振り返る。
「ありがとうございます。でも、慣れていますから――」
そう言いかけた瞬間、脚立がわずかにきしんだ。
リリアーナの身体がバランスを崩す。
「リリアーナ!」
気づけば、彼の腕が彼女の腰を強く抱きとめていた。
書架の影で、ふたりの距離が一瞬にしてゼロになる。
時間が止まったようだった。
息がかかるほどの距離で、青い瞳と琥珀色の瞳がまっすぐに交わる。
心臓の鼓動が、互いの胸に伝わるほど近い。
「……っ、すみません、ありがとうございます」
リリアーナは頬を赤らめながら、そっと身体を離した。
だが、レオニスはすぐには手を放さなかった。
「怪我はないか?」
「……ええ、大丈夫です」
「そうか」
彼はわずかに息を吐き、名残惜しそうに手を離す。
沈黙。
だがその沈黙は、気まずさではなく、何かが確かに変わった証のようだった。
「……本当に、危なかったな」
レオニスが低く呟く。
「あなたが来てくれて、助かりました」
「……それなら、来た甲斐があった」
その言葉は穏やかに聞こえたが、胸の奥には抑えきれない感情が滲んでいた。
リリアーナは視線をそらし、そっと本棚に手を添える。
「レオニス様……」
「ん?」
「どうして……そんなに優しくしてくださるのですか」
問いかける声はかすかに震えていた。
レオニスは一瞬言葉を失い、そしてゆっくりと答える。
「――理由が必要か?」
「……いえ。ただ……」
「君に、笑っていてほしい。それだけだ」
リリアーナの胸が小さく波打つ。
言葉にできない思いが、そっと心の奥で芽を出した。
彼の優しさが、ただの義務ではないと、もう気づいてしまっていた。
その日の夕刻、レオニスは城の中庭を歩いていた。
手には、王城から渡された新たな任務書。
だが、その視線の先にあるのは紙ではなく、図書館の窓。
――もう少し、近づいてもいいだろうか。
その問いが心に浮かび、彼は静かに空を仰いだ。
茜色の光が彼の横顔を照らし、決意の影を落とす。
少しずつ、確実に。
彼は彼女の心に届く道を、探し始めていた。




