第26話 抑えきれぬ鼓動
朝の陽が、石畳を淡く照らしていた。
王都の通りを行き交う人々の声が、遠くでざわめいている。
その喧騒の中を、レオニスは無言で歩いていた。
手には、先日自ら整理した一通の報告書。
内容は以前から知っていたもの――ハーヴェイ男爵家の令嬢、リリアーナの縁談進行状況。
だが、あらためて手に取り、文字を追うことで、心の奥でざわつく感情を確かめずにはいられなかった。
胸の奥で何かが軋む音がした。
――とうとう、現実として動いているのか。
理性では理解していた。彼女は貴族の娘で、縁談が持ち上がるのは当然のこと。
それでも、文字として再確認する瞬間、感情が先に反応してしまう。
「……俺は、何を望んでいる」
問いながら、自分でも答えはわかっていた。
彼女を手放したくない。
それだけの思いが、理性の壁を押し崩して胸を圧迫する。
気づけば、自然と足は図書館への道を進んでいた。
今日こそ行かない――そう心に決めていたはずなのに、扉の前に立ってしまう。
静かな館内。
窓からの光が机の上にやわらかく落ちている。
リリアーナは机で本の整理をしていた。
亜麻色の髪が朝の光に淡く輝く。
その光景だけで、胸の奥の痛みが少し和らぐ気がした。
「……レオニス様?」
声に驚きが混じる。
彼女は一瞬顔を上げ、そして微笑んだ。
「またお会いできるなんて。お忙しいのでは?」
「……たまたま、近くまで来ただけだ」
視線を逸らしながら答える。
本当は“たまたま”ではない。会いたくて来たのだ。
「最近、調子はどうだ?」
「ええ、元気です。ただ、少し考えごとが多くて」
その言葉の中にわずかな疲れが混じるのを、レオニスは敏感に感じ取った。
「……その縁談のことか?」
低く絞り出した声。
リリアーナは目を瞬かせたが、否定はしなかった。
「ええ。まだ返事はしていませんが、両親は前向きに考えているようで……」
「そうか……」
その一言を口にするまで、彼の喉は痛んだ。
静寂が館内に落ちる。
窓の外で風が木の葉を揺らす音だけが響く。
拳を握りしめる。言葉にできない思いが、胸の奥で渦巻く。
――やめろ。彼女の人生に踏み込むな。
――だが、黙って見送るのか、それでいいのか。
「……その相手は、どんな方なのだ?」
やっと絞り出した声。
リリアーナは目を伏せたまま答える。
「お会いしたことはありません。ただ、誠実な方だと聞いています」
「誠実か……」
その言葉を繰り返す。唇を噛む音が自分にだけ聞こえる。
再び静けさが訪れる。
彼女は視線を落としたまま本の背表紙を撫でる。
その仕草が、あまりにも儚く見えた。
――伝えたい。
今すぐ「行くな」と心の中で叫びたい。
けれど理性はまだ、その一言を許さなかった。
(君が……幸せになれるなら、それでいい)
心の奥で、そうだけをそっと呟く。
図書館を出た後、レオニスは深く息を吐く。
手に残る報告書は、もはや単なる紙切れに過ぎない。
自分で整理したとはいえ、心は揺れ動き続ける。
夕陽が街を赤く染める中、彼は足を止めた。
鐘の音が遠くに響き、風が頬を撫でる。
胸の奥で、彼女の笑顔が再び浮かんだ。
――次に会うときは、もう逃げない。
小さな誓いが、静かに胸に宿った。




