第25話 届かない想いの輪郭
夏の陽射しが少しずつ柔らかくなり、街の木々が青から淡い緑へと変わり始めていた。
図書館の仕事を終えたリリアーナは、手に持った本の束を抱えながら門を出る。
外は蝉の声がまだ響き、熱気の中にかすかな秋の気配が混ざっていた。
「……今日も、来なかったわね」
誰にともなく呟いた声は、風に溶けて消えた。
ここ数日、レオニスは忙しいのか姿を見せていない。
彼が訪ねてこない日は、いつもより空気が静かに感じられ、図書館の中に少しだけ空虚さが残る。
縁談の話は、少しずつ現実味を帯びてきていた。
父の話では、近く正式な返答を求められるという。
考えれば考えるほど、心の奥に重たい霧が広がっていく。
「……結婚、なんて」
呟きながら、リリアーナは家路を歩く。
胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。
一方その頃、レオニスは騎士団の訓練場にいた。
剣を振るう音が、夕暮れの空気を裂く。
剣の切っ先は正確で力強い――だが、その表情には迷いがあった。
「……団長?何かありましたか?」
部下の指摘に、彼は苦笑で返す。
「少し、考えごとをしていた」
そう答えながらも、頭の中に浮かぶのは、図書館の彼女の姿だった。
彼女の微笑み、細い指先、柔らかな声。
そして最近、少しずつ元気をなくしている瞳。
――何かあったのか。
いや、わかっている。縁談のことだ。
「本当に……このままでいいのか」
レオニスは剣を地面に突き立て、息を吐く。
縁談を止めたい――その思いは日に日に強くなっていた。
だが同時に、彼女の未来を縛るようなことをしていいのか、という迷いもあった。
自分の立場、そして彼女の穏やかな生き方を壊すような真似は、したくない。
それでも、あの笑顔を失いたくなかった。
リリアーナが他の誰かと幸せそうに微笑む姿を想像すると、胸の奥が痛くなる。
「……くそっ」
思わず低く吐き出した声は、誰にも届かず風に消えた。
夜、レオニスは街を歩いていた。
帰り道の途中、偶然、灯りのついた窓の向こうにリリアーナの姿を見かける。
彼女は机に向かい、本を読みながらペンを走らせていた。
その表情は静かで、けれどどこか寂しげだった。
窓越しに見つめながら、レオニスはそっと拳を握る。
「……俺は、何をしているんだろうな」
ただ見つめることしかできない。
近づけば、きっと何かが壊れてしまう気がする。
それでも――離れられなかった。
淡い光に照らされる亜麻色の髪が、夜風に揺れた。
レオニスはほんの一瞬、手を伸ばしかけたが、そのまま静かに引っ込める。
自分の想いを伝えたところで、彼女を困らせるだけかもしれない。
それでも、胸の奥の想いは確かにそこにあった。
――このまま何もせず、彼女を誰かに譲れるほど、自分は強くない。
夜空には、雲の合間からひとつの星が輝いていた。
届きそうで、届かない距離。
レオニスはその星を見上げながら、静かに呟いた。
「……リリアーナ。君が笑えるなら、それでいい――はずなのに」
その言葉を最後に、彼は静かに背を向けた。
風が吹き抜け、夏の匂いが遠ざかっていく。
けれど胸の奥の痛みだけは、いつまでも消えなかった。




