第21話 沈黙の夜に
図書館を出たあとも、レオニスの胸には、リリアーナの表情が残っていた。
あのとき、彼女はいつも通りに微笑んでいた。
けれどその笑みの奥に、何かを隠すような影が見えたのだ。
──縁談の話。
あれが、彼女の口から出る日が来るとは思ってもいなかった。
彼女が幸せになるなら、それでいいはずだ。
そう思って、何も言わずに帰った。
それが正しい選択だと、頭では理解している。
だが心は、まるで言うことを聞いてくれなかった。
「……これでよかったのか?」
小さく呟いた言葉は、夜風に溶けて消えた。
騎士団の詰所へ戻る足取りは、いつになく重い。
昼間の喧騒が嘘のように、王都の夜は静かだった。
鎧の金具がかすかに鳴るたびに、その音が胸に刺さる。
彼は立場を知っている。
公爵家の三男として、そして王国騎士団の団長として――
軽はずみに感情を口にしていい立場ではない。
たとえ、相手がどんなに愛おしくても。
図書館で本を受け取るたびに、彼女の指先がわずかに触れる。
そのたびに心臓が不自然なほど跳ねていた。
一緒に過ごす時間が増えるほど、理性が揺らいでいくのを感じていた。
だが、彼女は自分とは違う世界の人間だ。
穏やかに働き、日々を大切に過ごしている。
そんな姿を壊すような真似は、したくなかった。
それなのに――
縁談の話を聞いた瞬間、胸の奥に熱が走った。
どうしようもないほどに、彼女を失いたくないと思ってしまった。
「俺は……何を望んでいるんだろうな」
思考がまとまらないまま、レオニスは夜の訓練場へ足を運ぶ。
月明かりが白く石畳を照らし、冷たい空気が肌を刺した。
剣を抜き、構える。
一太刀、二太刀――
鋭い音が静寂の夜に響く。
だが、何度振っても心のざわめきは消えない。
(あの人は、もう……俺の届かない場所に行くのか)
振り下ろした剣先が、微かに揺れる。
汗が頬を伝い、呼吸が乱れる。
それでも、動きを止めることができなかった。
身体を動かしていなければ、心が壊れてしまいそうだった。
「リリアーナ……」
名を呼んだ声は、誰にも届かず夜に溶けた。
その響きだけが、自分の心を締めつける。
彼は剣を鞘に収め、夜空を見上げた。
星の光は遠く、どれも掴めそうにない。
それでも――心のどこかで、まだ諦めきれずにいた。
(幸せでいてくれ。それが……俺にできる、唯一の願いだ)
そう思いながらも、唇が震える。
それは、まだ想いを手放せない証のようだった。




