第20話 届かない距離
昼下がりの陽光が、窓のカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
図書館の木の床に光が模様を描き、埃がきらりと舞う。
春から初夏へと変わる季節、風が少しずつぬるみを帯びている。
けれど、リリアーナの胸の中だけは静かに波立っていた。
──縁談。
父からの手紙を思い出すたび、心の奥が冷たく沈んでいく。
確かに、家のためにも悪い話ではない。
むしろ名誉なことのはず。
リリアーナ自身、断る理由などどこにもない――そう思おうとしていた。
けれど、胸の奥がどうしても苦しかった。
まるで何かを置き忘れたような、ぽっかりとした痛み。
「……仕事に集中しなくちゃ」
自分に言い聞かせるように、机の上の書類を整える。
古い詩集の目録整理、貸出記録の書き込み。
いつも通りの静かな日々。
それでも、ページをめくる指先が震える。
ちょうどそのとき、図書館の扉がゆっくりと開いた。
「――やあ」
懐かしい低い声。
リリアーナは思わず顔を上げた。
そこに立っていたのは、銀灰の髪を陽に光らせたレオニス。
騎士団の紋章がついた黒いマントを羽織り、ほんの少し汗が額に光っている。
久しぶりに見るその姿に、心臓が不意に跳ねた。
「……レオニス様」
「また来てしまったよ。王城の会議が思ったより早く終わってね。静かな場所に来たくなったんだ」
穏やかな笑みを浮かべながら、彼は歩み寄る。
その歩幅はいつも通りなのに、リリアーナには妙に近く感じられた。
「……お疲れ様です。いつもお忙しいのに」
「君の顔を見ると、少し落ち着く」
ほんの短い一言。
けれど、その言葉に心が大きく揺れた。
リリアーナは慌てて目を逸らし、手にしていた本を閉じる。
「そ、そんなことは……。私はただ、ここにいるだけです」
「それで十分さ」
レオニスの声は低く、柔らかく響いた。
まるで胸の奥を撫でられるような優しさがあった。
だが、その優しさが――いちばんつらい。
沈黙が流れた。
外から鳥の声がかすかに聞こえる。
その静けさが、かえって胸を締めつけた。
「……少し顔色が悪いな」
レオニスがふと覗き込むように言った。
「何か、あったのか?」
リリアーナは少しの間、言葉を探した。
でも、もう隠しても意味はないと思った。
「……縁談の話が、ありました」
その瞬間、レオニスの青い瞳がわずかに揺れた。
まるで小石を投げ込まれた水面のように。
「……そうか」
「はい。父が……とても良い方だと」
言葉にするたび、心が痛んだ。
「おめでとう」と言われるのが怖かった。
「君なら、どんな相手でも良くしてくれるだろう」
「……そうでしょうか」
「間違いない」
その声音は穏やかで、誠実で、そして――酷く遠かった。
祝福するような笑みを見せながら、どこか寂しげな瞳。
それが、かえって胸を刺した。
「ありがとうございます、レオニス様」
リリアーナは小さく頭を下げる。
それ以外の言葉が、どうしても出てこなかった。
ページをめくる音、外を渡る風の音。
時間がゆっくりと流れていく。
やがて、レオニスが立ち上がる。
「……そろそろ戻らなければ」
「はい。お仕事、頑張ってください」
いつものような別れの言葉。
けれど、今日はそれがやけに重たく響いた。
「幸せになれ、リリアーナ」
その一言を残し、彼は扉を静かに閉めた。
木の軋む音が消えたあと、広い閲覧室には静寂だけが残る。
リリアーナはしばらくその場を動けなかった。
胸の奥が熱く、そして冷たい。
涙がこぼれそうになるのを必死でこらえる。
「……幸せに、か」
呟いた声は、誰にも届かない。
外から差し込む光の中に、銀灰の髪がふと脳裏をよぎる。
届かない距離。
それが、いまの彼と自分を隔てる現実。
けれど――
それでも、彼の声が優しく響いたその瞬間だけは、
確かに、心が温かかった。




