白昼の月 3
【太陽教団員(♀)視点】
昼空に満月が浮かんでいる。
あり得ない。
三日月や半月などならまだしも、満月が昼に昇るなど、星の巡りの法則からして起こるはずがない。
つまりあれは、青空よりも青白いあの真円は、幻覚、幻視なのか。月は常にそこに在るのだと、わたしの精神がそう思わされているのか。
「──ななひゃ、く……?」
天使様の声が聞こえた。思わずこぼれたと分かるそれは、普段の燃え盛るような声音とはまるで違う。
その視線はただ『月の触手』なる化け物へ、しかし表情は、まるで理外のなにかを視てしまったよう。今しがたまでの苛烈な攻勢も、手も足も、完全に止まってしまっている。
光輪の目の魔術は、全てを見透かすのだと言っていた。天使様はいったい、なにを視たのか。
天使様が“目”を見開いた瞬間になにかが起きたのだと、それはわたしにも感じ取れた。なにが、なにを引き起こしてしまったのか。
「──ぅ?」
そしてまったく唐突に、天使様が片膝をついた。
いや、いや違う。天使様の左脚の、膝から先がなくなっている。
「な……」
二拍以上は遅れて、ようやくわたしにも理解できた。『月の触手』が、その無数の触手それぞれの先端から、銀色の光線を放ったのだと。板張り壁の隙間から入り込むが如き、細く鋭い月明かりたち。それらが間近にいた天使様にいくつもの穿ち傷を与え、右腕と左脚を半ばから切り落としたのだと。
「が、ふっ──」
右腕とともに落ちた焔の剣が、一層激しい炎熱を吐く。
「──っざけんな……!『陽焔、っ、反応ァッ……!」
天使様が、立ち上がる。
「──天威換装』!!」
絞り出すような詠唱によって、失った手足は即座に炎に置換された。焔の義肢。ついに肉の体すらも超越した、まさしく太陽の天使様に相応しい姿。轟々と空気を舐める右腕と左脚は、それ自体が焔剣にも匹敵する天威の具現そのもの。
再び燃え上がった気勢そのままに、天使様が焔剣で斬りかかり。
「こんな程度でっ、あたしがァ! やられ──」
『月の触手』はそれをこともなげに掴んでみせた。
「──る?」
真正面から、いくつかの触手が絡みつき、天使様の焔腕を絡め取っている。
やつの身が焼ける音は、たしかに聞こえる。離れた場所にいるわたしの耳にも、その悍ましい音色は届いている。だがこれは……ああ……焼け爛れたそばから再生しているのか。炎が揺らめくよりもなお早く、銀色の触手が生まれ蠢いているのか。
「……炎を掴むなんてっ、あり得ないでしょうが……!!」
こんな生物が、存在して良いのか。
などと、凡百なわたしが考えるうちに『月の触手』は侵攻を開始していた。捉えた右腕を起点に、天使様の全身へと無数の触手を伸ばしていく。それはいっそ穏やかなほどに静かで、けれども、逃れ得ないと悟ってしまうほどに疾く恐ろしい。
「な、チッ……『陽焔反応──放射熱風』ァ!」
その身を燃やし爆ぜる、天使様自身も手傷を負う危険な技。
直後、爆発。間違いなく直撃した、だというのに──ああ、炎と煙が晴れたあとには、すでに再生を終えた『月の触手』と、拘束された天使様の姿が。
「くそッ……! 離せ、離せってのォ……!」
触手が幾重にも、天使様の両腕を肩から肘にかけて縛り上げている。もはや振り払うことも叶わないのか。
もつれ絡まった臓物のような触手塊、いわば『月の触手』の中心部のようなものが、ずるずると天使様の身体を這い上っていく。丹田、腹、胸を過ぎ、鎖骨を足場に顎の下を撫で、やがて顔面にへばりつく。
「んなのよっあんたァ……!」
目元を覆われ視界を失った天使様は、それでも自由な口と声で抵抗の意を示す。そうだ、我ら『太陽教団』の天使様は、たとえ絶体絶命の危機にあろうとも燃え盛る意思の揺らぐことなく──
「はーなれっろ、ぉ──♡?」
──ひどく浅ましい嬌声が聞こえた。
「ぉっ? ひ、ひぃ♡」
『月の触手』が、その触手が、さらにその先から枝分かれした無数の細い触手たちが。
両耳から、天使様の中に入り込んでいた。
「ぁ゙っ、まっ、ぇ゙ぅっ♡?」
細い細いいくつもの銀糸がゆらめいている。その先端が天使様の頭の中で一体なにをしているのか、わたしには理解できない。ただその揺れる様子が、いやに鮮明に見える。天翼のない背中が、ぴん、と不自然なまでに反っている姿も。くちゅくちゅという音は、本当に鳴っているのか。それとも幻聴なのか。
「んぉ゙♡ なに、これ、ぇ゙♡ 声、聞こえる、る♡?」
ただたしかなのは、天使様の口から、とても聖なる存在とは思えない蕩けた音が垂れ流されているということ。声と呼ぶのもおこがましい、享楽に戸惑い咽ぶ畜生のような音が。
「この♡ このっこれ、こえっ♡ 知ってる♡? あたし、ぁ゙っ、あたし、しってるぅ゙♡」
わたしも他の二人の教団員も、みな揃って呆然としていた。目の前の事象に、思考が正常に働かない。そんなわたしたちなど素知らぬとばかりに触手は蠢き、天使様は喘いでいる。
「ぁ゙たしの、あたしのたいよぉ、っ゙♡ あたしのっお゙ぉっ♡ かみさま♡♡?」
その音の中にはたしかに、言葉のようなものが混ざっている。しかしやはり、なにを言っているのかは分からない。であればそれは変わらず、獣の嬌声なのか。いつ何時も力強く「あんたたちに本物の太陽ってやつを見せてあげるわ!」と豪語していたあの天使様の声とは、まったく似ても似つかない。
「の、っ♡ はっ♡ ノソラちゃん♡♡? ノソラちゃんっ、だったのぉ゙♡♡???」
触手の動きが、うぞうぞといっそう生々しくなった。天使様の声も、ますます溶け崩れていく。
「あ、ぉ、お、すご、しゅごぉ……♡ こえ、こえ、こえ聞こえる♡ ノソラちゃんの声、ぇ♡ ノソラちゃ、ぁ゙、あたまのなか、きこ、ぉ゙♡ きこえりゅ♡ あたし、しのなか、いる♡ きこえる♡ 声♡ みえりゅ、うぅぅ♡ しゅご、しゃあわせ、これぇ♡ あたしずっと♡ ずっとこぇが良いぃ♡ ぅ゙、ぇお゛っ♡♡」
だらしなく開いた口の端から、よだれが垂れ落ちている。胸元を汚すそれのせいで、天使様はずっと舌足らずなまま。
「──ぇぅ? それ、はぁ♡ ノソラちゃんのためぇ♡ ぁ♡ うんっ……いま、ぜんぶつつぬけ♡?? しゅごぉ゙♡」
開ききらず閉じきらず、半端な格好で宙ぶらりんになっていた左手の指が、かくかくと蠢いている。
「ぇ、ぁ、ちが、っ、あたし、ノソラちゃんのために、っでぇ♡ あ゙♡ ごめっ♡ ごめんなひゃ♡ ちが、くてぇ♡ 」
焔の光輪が、天使様の天使様たる威光が、ちかちかと点滅していた。まるでその輪までもが、悦楽に呑まれているかのように。あるいは、より上位の存在からの罰に、咽び泣いているかのように。
「──ぅ゙ー……♡? な、それっ、ほんとぉ♡? で、でもあたし──ぉ゙ぉっ♡?!? ひぃ♡ ごめ、なさっ♡ ぅ゙♡ ひゃい、やります♡ たしかめ、ますぅ゙♡♡ おわび、しますぅ゙♡♡」
ひときわ大きく体を震わせ、関節という関節をかくっとひくつかせ、天使様はついにその場に座り込んだ。好きになぶられた、か弱い女のような格好で。
「ぉひっ♡ ひゃ、はいっ♡ 降参、しましゅ♡ ぉっ♡ まけっ、まけました、ぁ゙ぁ〜っ♡♡」
そしてあっけなく、天使様と『月の触手』の決闘は幕を閉じる。
『来訪者』同士の取り決めの通り、決着がつけばすべてが元通りになる。『月の触手』と天使様は、それぞれが最初にいた地点に佇んでいた。つい一瞬前までの、隙間もないほどに取り憑かれていた姿など嘘のように。
「…………」
天使様が蕩けきった声でこぼした降参という言葉。その意味するところを理解するまでに、少し。そしてそのあいだに、いやまだ、わたしがまったく自失状態にあるうちに、天使様はふらりと立ち上がった。
「…………」
肉の手足を取り戻し、けれどもふらふらとおぼつかない足取りで、わたしたちのほうへと歩いてくる。その目つきは昏く、だというのになぜだか、爛々と輝いて……いや、蕩けてすら見えた。
「……確かめさせて、貰うわ」
その言葉がわたしたちへ向けられたものだと、そう気付くのすら遅れた。
天使様の頭上に再び光輪が浮かび、そしてそこに、魔力が収束していく。これは、光輪の目の魔術……?
「て、てんし、さま……?」
「なにを……」
「あんたら相手なら、出力はそこそこ……時間はかからない」
異様な雰囲気に気圧されているうちに、すぐにも魔術は完成した。全てを見透かす不可視の“目”、それがわたしと、隣に立つ二人の教団員を睥睨する。
なにもかもを見透かされているような感覚。恐怖、動揺、もはや天使様を我らが導きと思えなくなった心、やまない拍動、なぜだか脳裏にこびりついて離れない『月の触手』と天使様の交わり、それら全てが筒抜けになっているのではないか。
「へぇ、ほんとに月……ノソ……彼女の言う通りとはね……」
しかしその居心地の悪い感覚は、ほんの一瞬で終わった。“目”はわたしへの興味などすぐさま失い、ただ隣の二人を睨み続けていたのだから。
舌打ちとともに黒い靄を立ち上らせた、二人の教団員を。
「──『汚濁共生体』ねぇ。騙してたわけ……いや違うか、ずっと気付けなかったあたしがバカなだけか」
オオカミの唸り声が、聞こえた。




