六十六話
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「ただいま」
ベッドで眠る母さんの枕元に腰をおろし、そっと声をかける。この家に帰ってくるのは久しぶりだ。
母さんは青白い顔色でベッドに横になっていた。
家に帰ってくる前に村長に挨拶に伺ったときに、今日は体調を崩して休んでいると教えてくれた。
どうやらここ最近忙しかったらしく、根を詰めて働きすぎたらしい。
真っ白な顔で仕事に行こうとする母さんを無理やりベッドに押し込んでくれたそうだ。
あたしがお礼を言うと、村長は「助け合いだから」と笑い、更にローズヒップを乾燥させて作った茶葉を持たせてくれた。
村長には感謝しかない。あたしの代わりに母さんの手助けをしてくれているのだから。
本当ならもっと帰省する頻度をあげるべきなのだろう。そうしなかったのは、どこかで帰りたくないという気持ちがあったからだ。
あたしは怖かった。父さんを忘れてしまった母さんと話すことが。
日常の会話でふと父さんの話題が出たときに、少し困り顔で曖昧に微笑む母さんの顔を見るのがつらかった。
視線を落として寂しそうな顔をする母さんを見ていたくなかった。
父さんの存在がいつの間にかあたしたちの間で扱ってはいけない話題となっていくのが怖かった。
だからあたしは意図的に帰省する機会を減らしていた。
「ここはいつも変わらないね」
母さんの寝室には、村の近くを流れる小川周辺に生息している薬草を乾燥させて作ったドライハーブの束が吊るされている。
果物に似た甘い香りのなかに、すっと通るような清涼感があり、大好きな母さんからこの香りがするのが嬉しくてよく抱きついていたことを思い出す。
今も変わらずこのドライハーブを作っているのだと思うと安心する。
記憶の喪失が広がっていないことを教えてくれるからだ。
そんなことを戦々恐々としながらいちいち確認しなければならないことは悲しいが。
「ああ……ミーシャ、帰ってきてたの」
目を覚ました母さんは擦れた声で言うと、布団から体を起こしてあたしの頭を優しく撫でてくれた。母さんが動くたび、服からハーブのよい香りが漂ってくる。
「もう、子供じゃないんだよ?」
「いくつになっても貴方は母さんの大事な子供よ」
そんな言葉が嬉しくて、でも照れ臭くもあり誤魔化すように目を瞑ると、母さんの忍び笑いが聞こえてきた。
不思議に思って目を開けて首を傾げると、母さんはあたしの心の声に応えように話始める。
「母さんさっきまで男の人の夢を見ていたの。綺麗な星がたくさんある場所で男の人が母さんに笑いかけきて、なにを話すわけでもなくずっと星空を眺めているの。ただそれだけだったんだけどね、その男の人は嬉しそうに目を細めて笑うの。その人とミーシャの目元がそっくりだったからつい嬉しくなって──」
母さんはそこまで言うと、言葉を詰まらせて「なんで嬉しいなんて思ったのかしら」と呟き、視線を彷徨わせた。
ああ。父さんは夢で帰ってきてくれたんだ。
どれだけ離れていても、どれだけ時間が経とうとも、失われない愛の絆がしっかりと結ばれている。
震える唇と込みあげる涙を誤魔化すように、あたしは母さんの胸に飛び込んだ。
「あら、なによ子供みたいに。しょうがないわね」
さっきいくつになっても子供って言ったじゃん。
少しの反抗心を飲み込んで、今日きた目的を告げる。
「あたしね、しばらく監督署を離れることになったの。世界を見て知識を集めて、モデールの自然をいつまでも守るために勉強したいの」
母さんは小さく「そうなの」と呟く。
「しばらくは母さんに会いにこられないけど、必ず手紙は書くから。どれくらい離れることになるかわからないけど、絶対に帰ってくる。ちょっとだけ……母さんに寂しい思いをさせちゃうことになるけど、絶対に、絶対に帰ってくるからっ」
いやだ。母さんと離れたくない。
言葉とは裏腹に、腹の底から湧き出る不安と悲しさに押しつぶされそうになる。
決心が鈍る。
「泣きながらそんなこと言わないの。一生の別れみたいじゃない」
「忘れないで。あたしはずっとお母さんを想っているから」
あたしという存在を母さんに刻みつけるように強く抱きしめる。
「ふふ。力も強くなって。大人になっていくのね」
母さんは小さな子供をあやすように、背中をそっと叩いてくれた。そのリズムが心地よくて、懐かしくて、涙が止まらない。
「大丈夫よ。母さんもミーシャのことずーっと想っているわ。貴方を置いてどこかにいったりしない。約束する」
母さんがあたしの額に触れるだけのキスをする。
「愛しているわ、ミーシャ」「愛しているわ、ミーシャ」
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