六十一話
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「お父さん!」
「あ……う、ん」
「お父さんっお父さん!」
「ここは……?」
ミーシャの呼びかけに、グリフィスの瞼がゆっくりと重たそうに開かれる。
「グリフィス、僕のことがわかるかい?」
キャスウェルが不安そうな顔でグリフィスの顔を覗き込む。
グリフィスは焦点の定まらない瞳がキャスウェルの顔をぼんやりと眺め、しばしの沈黙の後「ああ、主様」と、か細い声で囁いた。
キャスウェルは僅かに開いた唇から忍ぶような息をつく。続いてグリフィスの腕に彫られているタトゥーを人差し指と中指でそっとなぞり「うん、こっちも問題なさそうだ」と、今度は天を仰ぎながら安堵の溜息をついた。
「よかったぁ……」
ミーシャの安堵の声にグリフィスが目を大きく見開いて体を震わせる。信じられないものを見るような目でミーシャを見つめ、震える唇で声を振り絞る。
「ミーシャ……どうして君までここに」
「覚えてない? あたしたち、あの竜に食べられちゃったんだよ」
「食べられた……?」
「そう。それで父さんは体と烙が離れちゃったの。でもキャスさんが協力してくれたおかげで元に戻ることができたんだよ」
「烙? 元に戻る? 一体なにを言っているんだ」
当然ながらグリフィスは困惑している様子だった。目が覚めたら知らない場所にいて、娘の口から聞いたことのない単語の混じった説明を受けても、なるほどと納得できるわけがない。
「僕が説明するよ。僕にはその責任と義務がある」
キャスウェルは現状と経緯を重要な点をかいつまんで説明した。そのなかにはグリフィスを家族から引き離し利用したことも含まれていた。
グリフィスは落ち着いた様子で時折頷きながらも、一度もキャスウェルの言葉を遮ることはしなかった。
「僕はもう一度会いたかったんだ。過去のくだらない人生も、アシュマンに生まれてからの長く苦悩に満ちた熟慮の日々も。彼女を再びこの手で抱きしめることができれば、僕の不毛な人生もきっと意味を持たせられるんじゃないかって」
ミーシャが見たキャスウェルが人間だったときの記憶はごく一部だけだった。しかし、その一部だけでもキャスウェルがどれほどの絶望を抱えていたのかは想像できる。
「そのためには誰かの幸せを奪う必要があった。僕の幸せの対価に支払う誰かの幸せが。僕は……僕はその誰かに君たちを選んでしまったんだよ」
告白するキャスウェルの顔からは感情と呼べそうなものはない。
ミーシャにはキャスウェルの心中がわかる。
感情を露にして同情心に訴えかけるような真似はしてはいけない。何故なら、それは許して欲しいという自己都合に満ちた懺悔になってしまうから。
「事の顛末はこんなところかな。せめてもの償いをと、ミーシャちゃんに協力することにしたのは、わずかでも奪ったものを返したかったからだ」
全てを話し終えたキャスウェルは口を横一文字に結んだ。そして、これから浴びせられるであろう罵声を一身に受け止めるために、大きく深呼吸をしてグリフィスを真っすぐ見据えた。
閉じられていたグリフィスの瞼がゆっくりと開かれる。
「普段僕が主様にどんなに嫌な顔をされても無視されても口を酸っぱくして言っていることがありますよね」
そんな話し出しだったからか、キャスウェルは不思議そうに首を傾げた。
「肩肘を張らずに素直になってください」
「あ……」
「主様はきっと苦しんだのでしょう。その苦しみは僕には想像もつかないほど壮絶で残酷で、この世の全てを憎むには十分だったはずです。そして、主様はいつまで醒めることのない悪夢のような現実から逃れるために嘘をつき続けてきた。それが自分を守る唯一の手段だったから」
グリフィスの声はとても穏やかで、まるで子供に絵本の読み聞かせをする親のような慈しみに溢れたものだった。
「でも、嘘は一つ二つと重ねるうちに心に濃い影を落としていきます。影は心の弱いところから浸食し、気がつかないうちにとり除けない痕になり、どす黒い虚像の己を生み出してしまう。困難からの逃避は人間にとっては当たり前の感情です。それがなければ人は理性に殺されてしまうから。しかし、限度を超えてしまうと、苦しいときの逃げ道として作り出した虚像がいつの間にか真実となる。これはあまりにも酷です。何故なら本当は誰だって自分の心に素直でありたいはずだから」
遠くでなにかの弾ける音がした。
「僕は主様の心の虚像を何度も見てきました。主様は普段はとぼけたようなことを言うし、楽天家のように振舞います。でも、ふとした瞬間に死人のように乾いた瞳で茫然と、ある人物を描いた絵を見つめているときがあるのです」
キャスウェルが「見られていたのか」と渋い顔でぼそりと呟いた。
「主様はその絵に描かれた女性のことをあまり語ろうとはしなかった。僕も話したがらない主様を詮索するようなことはしたくはない。だから、これまで触れないようにしてきました。でも、僕はその女性の存在こそが、主様が虚像を作り出さなければならなかった未練なのだと確信しておりました」
始めてキャスウェルの工房へといったとき、部屋に一枚だけ絵が飾られていることを思い出した。稲穂色の髪を後ろで束ね、こちらに向かって無垢な笑みを浮かべる女性。
「そういえば、サーシャに似てた……」
キャスウェルの記憶に出てきた、ミーシャと同じ年くらいの女の子。
恐る恐るキャスウェルの顔を伺うと、自嘲気味に全てを諦めたような乾いた笑いを張りつけた顔があった。
「彼女を深く愛しているのはわかっておりました。それこそ、絵にしてそばに置きたくなってしまうほどに。しかし、その絵を見ていると噎せ返るような醜悪な感情にも苛まれてしまう。見たいのに見ていたくない。少しでも彼女との思い出に浸っていたくて、それでいて今すぐにでも体に纏わりついた残り香を洗い流してしまいたい。執着とは本当に恐ろしく、美しいものです」
グリフィスがキャスウェルの手を掴むと、そっと両手で包み込んだ。
「だからこそ、素直になって欲しかった。人は一人で苦しみに立ち向かえますが、戦い続けることはとても難しいのです。どれだけ強い心を持った人だとしても、濁流のように次々と押し寄せる感情の波には抗い続けられません。人は一人でも生きていけます。でも、それは孤独だけを知る人間にしかできません。人のぬくもりを、友情を、親愛を、誰かを愛し愛される幸せを知ってしまった人間には、共に歩んでくれる誰かが必要なのです」
キャスウェルもミーシャも全てを犠牲にしても手に入れたいと願ったのは、自身の愛する人のためだった。
とても陳腐な言い方になってしまうが、愛は無限の力を秘めている。親は自分の子を守るためならば命すら惜しまない。恋い慕う人が危険に晒されていれば、人は危険を顧みずに助けに行こうとする。
人間は本能的に自己防衛を優先する生き物だ。それは長い人類史のなかで培った生きる術だ。しかし、愛というものは、その本能すら凌駕してしまうことがある。そして、強すぎる愛がゆえに、人間は暴走してしまう。
「僕は……主様と十年共に暮らし、いつしか貴方を家族と思うようになっておりました。だから、心に色濃くついてしまった虚像を癒してあげたかった。もう嘘をつかなくてもよいのだと、ずっと言いたかった」
色つやのよい頬を傷と皺だらけの手が愛しむように包み込む。
キャスウェルはくすぐったそうにグリフィスの手のなかで呻く。
「一度だけ、こう呼ぶことをお許しください」
断りを入れてから、グリフィスは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「キャスウェル。なにも怖がることはない。大丈夫だよ。君は一人じゃないんだ」
その一言が全てだった。キャスウェルの翠色猫目が零れ落ちてしまいそうなほど大きく見開かれ、揺れ動く。
「くっ……うう……」
ミーシャは思う。きっとキャスウェルは自分の世界を奪われたような気持ちでこれまで生きてきたのだろうと。
愛する人との離別。そして、叶わなかった再会。アシュマンは執着によってその存在を肯定する。それは、逃れないように軛を打ちつけられているのと同じなのだ。
苦しみの輪廻からの解放は望めず、もしそれが叶ってしまったとしたら、己の存在を肯定できなくなる。
それはまさしく呪いだ。存在するために苦しまなければならないなど、これ以上ない拷問だ。
「グリフィス……」
人の心は苗木のように柔らかく、内外的要因によって簡単に折れてしまう。しかし、他者から添え木をしてもらい、水を与えてもらえれば、また立ちあがり成長し続ける。
愛を失ったことによって折れてしまった心を救ってくれるのも、また愛なのだ。
「ほん、とうに……ごめんなさい」
涙を流し、許しを請うキャスウェルを、グリフィスは柔らかい笑みで迎え入れる。
羨ましい。本当はあたしだってああしてもらいたい。
湧き出る嫉妬の熱にうなされながらも、ミーシャは二人の間に割って入ろうとはしなかった。
キャスウェルにもグリフィスのような父親が必要だと思ったからだ。長い孤独のすえに、ようやく自分に愛を向けてくれる人が見つかったのだ。
それはとても素敵なことで、たとえ実の娘でも、二人の心の邂逅を邪魔する権利はないと思った。
「いいのです。いいのですよ」
嗚咽を漏らし続けるキャスウェルの顔を、グリフィスは愛おしそうに何度も撫でていた。
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