五十八話
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視界が暗転する。
頭が上手く回らない。
手足の先が痺れて、全身から血の気が引いていく感覚に襲われていた。
「あたしの記憶と違う」
父さんの記憶の内容に、あたしは動揺していた。
「あたしの覚えている父さんとの最後の会話はあれじゃなかった」
いや、会話など交わしていなかった。仕事に行く父さんに「いってらっしゃい」の一言も言わずに自室に戻ってしまったはずだ。
それに父さんの記憶のなかに出てきたあたしは、今にもこと切れてしまいそうなほどひどく衰弱していた。これも記憶とは大きく異なるものだった。
「やっぱりおかしい。あたしの記憶とは全然違う……」
これが似たような内容ならば、ただの記憶違いかと納得できただろう。しかし、今見た光景はミーシャの記憶とは異なるものだった。
一体どういうことなのか。気持ちの整理がつかないまま、場面は更に移り変わっていく。
次は先ほどの記憶の続きのようだった。
「父さん……!」
鼻腔を刺すような血生臭さと共に視界に映ったのは、ラウルさんとトーラスさんに担がれた父さんの姿だった。
「グリフィスさん! グリフィスさん! しっかりしてください!」
トーラスさんの震えた声が静かな暗い森に響き渡る。
よく見ると、ラウルさんもトーラスさんも服に濃い染みができている。しかし、二人は見た目よりも傷が深くないのか、体格のよい父さんを両側から肩を抱いて引きずるように歩いていた。
「くそ! まだ馬のところまで距離がある。トーラス! もっと力を出して引っ張ってくれ」
「はい!」
父さんの体は糸の切れた人形のようにぐったりと力が抜けていて、意識も朦朧としているようだった。
「すいません、俺が……止められたのに、暴走して密猟者を追っちまったからっ」
「お前の懺悔なんか聞きたくねえよ。それよりもグリフィスさんを一刻も早く監督署まで運ぶことに集中するんだ!」
二人の声にいつもの余裕はない。それがどれだけ緊迫した状況なのかを物語っていた。
どうやら密猟者を追う最中になにかがあったらしい。
「……おい。今の聞こえたか?」
森を進んでしばらくしたとき、ふいにラウルさんの足が止まった。
「なんすか。そんなことどうでも……」
急に立ち止まったラウルに苛立ちを感じたトーラスさんが抗議の声をあげる。しかし、すぐにトーラスさんも異変を察知したようだ。
「まさか……!」
「……アオオオオオオ……オオオン」
「狼だ!」
森の奥から風に乗って流れ聞こえてきたのは、モデールの食物連鎖の頂点に立つ森の狩人遠吠え。
それは死の足音がすぐそこまで迫っていることを知らせるものだ。
「もうあいつらをっ……!」
二人は父さんを抱えたまま弾かれるように走りだした。
恐怖から逃れたいという感情からにじみ出るうめき声のような吐息が、このときの二人の心情を表している。
人一人を抱えているとは思えないほどの速度で必死の形相で森を駆け抜ける。しかし、やはりと言うべきか、大柄の父さんを抱えたままでは体力はすぐに限界を迎えてしまう。
すぐに速度が落ちていき、二人の足並みが乱れた瞬間にトーラスさんが木の根に足をとられ転倒してしまった。
「おい! 大丈夫か!?」
「はい……大丈夫っす」
すぐに立ちあがろうとしたトーラスさんだったが、右足に力を込めた途端、苦痛に顔を歪めて座り込んでしまう。
「どうしたんだ!?」
「足を……やっちまった」
トーラスさんが絞り出すように震える声で言った。
ただでさえ大人一人を引きずって狼から逃げるというのは、精神的にも肉体的にも負担が多い。それに加えて、更に一人身動きがとれなくなってしまうということの差す意味は考えたくもない。
「……ラウルさん、俺を置いて行ってください」
「なにを言っているんだ!」
「しょうがないでしょ! 足手まといがいて逃げられるような相手じゃないんだ! もう時間は残されてないんだよ!」
「ふざけるな。お前を置いて逃げられるわけないだろうが。そもそもグリフィスさんはお前を助けるために森に入ったんだぞ」
「グリフィスさんが怪我したのは俺のせいだ。密猟者に捕まった俺を助けるために身代わりとなってリンチを受けて……。俺は受けた恩を返す前に恩人を見殺しにするところだった。今この瞬間にできる最大の恩返しは、俺が囮になって狼を食い止めることだ」
「甘えたこと言ってんじゃねえ!」
縮みあがるほどの怒号が森中に響き渡る。あまりに剣幕にトーラスさんは顔をこわばらせて口を噤む。
「この人がなあ……仲間をどれだけ大切に想っているのか、お前はまだわからねえのか! もしこの場でお前を置き去りになんてしたら、この人は自分のことを許せないだろうよ。大切な部下を守れずに、自分だけのうのうと生きていくことにきっと耐えられない。意外にもろいんだよ。家族も仲間も、自分の愛する者たちがいるからこの人は強いんだ。その前提が崩れちまえば、この人は簡単に自分を見失って自暴自棄になっちまうぞ。お前はそれでもいいのか!? 恩人が、グリフィスさんがぼろぼろになって俺たちの憧れたグリフィス・イルデルじゃなくなってもいいってのか!」
「……そんなこと、ねえ。でも……もう他に手段は……」
「そんなもん俺がなんとかしてやる。お前が歩けないなら、グリフィスさんとお前を担いででも、狼から逃げきってやる。逃げきれなくて狼に襲われたとしても、俺が必ず二人まとめて守り抜いてやる。勘違いするな。俺を犠牲に二人を逃がすなんて腑抜けたことを言ってんじゃない。三人とも必ず生きたままこの森を出るって意味だ。お前にデカい口叩いて自分を犠牲にするなんてことはしねえ! だからてめえも腹に力入れてふんばりやがれ。グリフィスさんの部下ならどんな状況に置かれたとしても諦めずに戦い抜いてみやがれぇ!」
「……はい!」
わなわなと震えるトーラスさんの口から放たれた返事は、声が裏返っていて情けないものではあったが、ラウルさんの怒号に負けないくらい強いものだった。
「……お前たち……怪我人が、いるんだから……もう少し静かにできない、のか?」
「グリフィスさん!」
二人が同時に父さんの名を叫ぶ。父さんはうるさそうに、しかし、嬉しそうに目元を細めて二人を見あげた。
「状況を……簡潔に説明して、くれるか」
いち早く反応したのはラウルさんだった。
「後方から狼たちが近づいてきています」
「密猟者たちは?」
「……狼たちの群れにやられてしまったと考えられます」
「最悪……だな」
「すみません。彼らは武装しており、私だけでは拘束することは難しく……。狼の群れの出現に乗じて逃げることしかできませんでした」
「……現状が最適解だと考えよう。それで逃げる算段は?」
「私が二人を背負ってでも逃げてみせます」
「それは、また気合いの入ったことだが、現実的かと言われれば答えに窮するな。……俺に考えがある」
父さんは力の入らない足に喝を入れるように拳で数回叩いて自力で立ちあがる。ラウルさんが咄嗟に補助に入ろうとしたが、そこは手で静止した。
「特区Ⅱの泉に行く」
「はあ!?」
今度はトーラスさんが声をあげる。
「グリフィスさん、正気ですか? 確かにここは泉までそう離れてませんけど、それでも夜で視界の悪い森を進むのは危険すぎる。それに泉がある場所は狼たちのいる方向じゃないっすか。それこそ死にに行くようなもんっすよ!」
トーラスさんの悲痛な訴えに、父さんは呼吸を整えてから答える。
「僕たちが狼から逃れて監督署までたどり着く可能性は限りなく低い。ここは彼らの庭だ。このまま逃げ続けても結末は変わらないだろう。それじゃあ意味がない。この状況を覆す唯一の方法は、ドラン様の元へ行き保護してもらうことだ」
「ドランって……あのモデールの妖精のことですか? あんなのただの作り話じゃ」
「いいから俺の指示に従うんだ。悠長にしている時間はない」
父さんの意見に二人は顔を見合わせる。二人の顔にはありありと不満の色が張りついている。
「さあ、ラウルは肩を貸してくれ。立ちあがれたけど、まだ一人で歩くことは難しそうだ。トーラスはなんとか歩けないか?」
「根性で歩きます」
それでも指示に従うあたり、二人の父さんへの信頼は厚い。
トーラスさんが近くにあった折れ枝を杖代わりに立ちあがる。くじいた足が傷むのか顔を歪めてはいるが、ゆっくり歩くぶんには支障はなさそうだった。
ラウルさんはしぶしぶと言った顔で父さんに肩を貸す。こちらも怪我を悪化させないようにゆっくりと歩くしかなさそうだ。
「狼たちよ、聞こえているのだろう。僕たちはこれから森の妖精ドラン様の元へ行く。僕はドラン様ととある約束をしている。僕はその約束を果たすために、これから泉へ向かうつもりだ。聡明な君たちならこの意味するところがわかるだろう」
星明りの届かない森の深い闇に向かって父さんは語りかける。当然のことながら、問いかけに答える声はない。しかし、先ほどから森中に轟いていた狼たちの遠吠えがぱたりと止んだ。
闇の先から感じていた殺気が緩んだ気がする。だが、相変わらず気配はするので、つかず離れずといった一定の距離間を狼たちは保っているようだ。
「大丈夫だ。わかってくれたみたいだ」
父さんはそう言うと、ゆっくりと森の闇夜のなかへ向かって歩き出した。
◇◇◇
夜空を彩る星々が数を減らし始め、いよいよ夜の終わりを迎えるころ、父さんたちは特区Ⅱの泉にたどり着いた。
道中常に狼たちの気配はあった。遠巻きに感じる狼たちの足音。ガサガサと葉の揺れる音がどこまでもついてくる。しかし、視界に入るところまでは決して近づいてくることはない。
一定の距離を保ちつつ、狼たちは父さんたちを監視し続けていた。
そんな状況では精神面の疲弊はかなり強く、トーラスさんは泉に着いたころには、生気のない顔色をしていた。
父さんとラウルさんもトーラスさんほどではないにしろ、やはり疲労の色を隠しきれない様子だった。特に父さんはひどい怪我を負っているため、着ている制服は大部分が血に染まっていた。
「ここでいい。お前たちは少し休んでいるんだ」
肩を貸して貰っていたラウルさんにそう言うと、父さんは一人泉に向かって歩き始める。
足を引きずる音が、夜明け間近の静かな森の唯一の音だった。
「ドラン様、お待たせしました。グリフィスです」
泉のそばで跪いてドラン様へと呼びかける。
夜が明け白み始めた空を映し出す泉の水面に一つの波紋が広がった。
「ずいぶんと無茶をしたようだ」
泉の方から老齢の男性を連想させるしわがれた声が聞こえてきた。
「悪い出来事は重なって降りかかってくるものですね。部下たちにも可哀想な思いをさせてしまいました」
「して、覚悟は決まったのか」
「……はい」
姿は見えない。しかし、父さんの正面から聞こえてくる声と、その空間から生じる威圧感が、森の妖精ドランと呼ばれる存在が確かに存在しているのだと思わせる。
「金貨を持ってきているか」
「はい。ここに」
血だらけの制服の懐から出てきたのは、表面になにも描かれていない金貨。まだ契約をすませていない証だ。
「ならば私と共に工房へ。そこで正式に契約を行う」
「はい。……あの、一つお願いがあるのですが」
「なんだ?」
「二人を、僕の部下を仲間の元へ帰してはくれないでしょうか。二人共密猟者から動物たちを守ろうと戦って、もうぼろぼろです。このままでは森を抜ける前に狼たちに襲われてしまうでしょう。だから、ドラン様の慈悲をいただきたいのです」
しばし無音の時間が流れる。父さんは身じろぎすることもなく、真っすぐと泉を見据えている。
「……よかろう。其方たちの働きには森のものたちも私も感謝している。狼たちには手を出さないように言っておこう。だが、手を貸すのはそこまでだ。仲間の元へは自分の足で帰ってもらう」
「ありがとうございます」
父さんは礼を言うと、一度泉を離れ二人の元へ戻っていった。
「聞いていたか? 狼たちはドラン様が抑えてくださるそうだ。二人は一旦ここで体力の回復を待ってから、監督署に戻るんだ」
狼の脅威から解放されたからか、二人の顔がわずかに綻んだ。しかし、すぐにまた曇ってしまう。
「僕のことなら大丈夫さ。ミーシャの命を救うことができるならば、僕に迷う理由なんてないんだ」
「俺もミーシャを助けたい気持ちはあります。でも、そのドラン様って言うのは本当に信じられるものなんすか。俺には悪魔の誘惑にしか思えないっすよ」
「おい、めったなことを言うな。ドラン様はこの森を長く見守ってきてくださった方なんだ。悪く言うなんてことはするんじゃない」
「グリフィスさん帰りはどうするんですか。貴方だってひどい怪我をしているんです。そんな状態で一人で帰ってこられるんですか」
「心配するなラウル。何故かはわからないんだが、今は傷の痛みは感じない。むしろ体が軽く感じられるくらいなんだ」
「しかし……」
「もし僕になにかがあった場合はラウル、お前にモデールとミーシャのことを頼みたい」
「……はい」
父さんはラウルさんの返事を聞いて安心したような表情を浮かべた。そして、トーラスさんの肩を軽く叩いた。
「トーラス、よく頑張ったな」
「グリフィスさん、俺──」
トーラスさんが行かせまいと、父さんの腕を掴む。
「全くいつからそんな甘えたになったんだ? そうだ、帰ったらこれをミーシャに渡してくれないか」
胸ポケットからとり出したのは、折りたたまれた麻布だった。
「なんですかこれ」
「僕の家に伝わる家宝だ。万が一のことがあってはならないから、お前が預かっていてくれ」
それが命を軽く捨てるようなことはしてくれるな、というメッセージだということにトーラスさんは気がついたようだった。
「死ぬ気はない。だが、もし僕が帰ってこなかったらそれをミーシャに渡して欲しい」
「グリフィスさん……」
父さんは不安そうな顔のトーラスさんに安心しろと、微笑みかける。
トーラスさんはそれ以上なにも言えなくなってしまったようだった。
「お待たせしました」
「よかろう。ならば参ろうか」
一陣の風が泉を駆け抜ける。白んだ空から七色の光りが降りてくる。
「行ってくる」
七色の光りに消える父さんは、最後まで笑顔だった。
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