五十六話
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「さて」
合わせた手を擦りあわせ、そっと口元に寄せるとキャスウェル努めて軽い口調で話し始める。
「これからグリフィスの体を介して烙へと接触を始める。ミーシャちゃんは目を閉じて意識を集中して、呼吸を一定に保ってくれ」
「あたしはなにもしなくていいんですか?」
「うん。できるだけなにもしないでいて欲しい」
「……わかりました」
余計なことはしないでくれと暗に言われ、声に混じった不満の色を察知したキャスウェルは仕方がないなと言わんばかりに苦笑し、ゆっくりと言い聞かせるような口調で語り始める。
「物事には適材適所という考え方があるだろう。僕にはこれなんだ。ミーシャちゃんには、ミーシャちゃんにしかできないことがある。最高の結末のために力を合わせよう」
「ですよね。すみません」
「よし、じゃあ始めるよ」
三人で輪を作るように手を繋ぐ。
左手から伝わるグリフィスの体温を逃がさないようにしっかりと手に力を込める。
「グリフィスの烙への接触には変換のタトゥーで繋がれた道を辿っていくことになる。気分が悪くなるかもしれないが堪えてくれ」
ミーシャは唇を横一線に結び、無言のまま頷く。
「さあ、行くよ」
かけ声と共にキャスウェルの翠眼が灯る。ゆらゆらと揺れる光翠が徐々に強さを増して、翡翠のような透明感のある美しさを放つ。
「タトゥーとの接続が終わったら合図する。そうしたら息を大きく吸い込んで止めてくれ」
ミーシャは目を閉じて、そのときを待つ。耳に届く心臓の音と、自分の呼吸音だけに意識を集中させる。
「今だ……!」
キャスウェルの合図と同時に左手に静電気のような痛みが走る。左手から入ってきた痛みは腕をのぼり、心臓をすぎて右手へと抜けていく。
「……っ」
大きく息を吸い込み、肺を空気で満たすと胸に力を込めて息を止めた。
次の瞬間、浮遊感がなくなり体が落下する感覚に襲われる。
突如訪れた異変に恐怖を感じて悲鳴をあげようとした瞬間、キャスウェルと繋いでいた右手が強く握られた。
心配しなくていい。繋がれた右手からキャスウェルの想いが伝わってくる。すぐそこまでせりあがってきていた恐怖心を必死に飲み込み、両手から伝わってくる体温に意識を集中させる。
どれくらいそうしていたのだろうか。落下している感覚に慣れ始めたころ、体の落下の速度が徐々に緩やかになり始め、間もなく完全に停止すると靴底に土の感触が伝わってきた。そして、瞼の裏に映る暗闇が一瞬にして晴れていった。
◇◇◇
夢というのはいつも肝心な部分がぼんやりと不鮮明で、唐突に始まる物語のなかで自分はただの傍観者でしかなく、めくるめく展開に翻弄されるばかり。
これもきっとその類なのだろう。
あたしの視界に映る景色は部屋の一部だけを切りとった絵画のようで、描かれている父さんと母さんは記憶よりも遥かに若い。
「話を聞いてきたよ。やはり今の医学ではミーシャの病は治療できないらしい。そもそもミーシャのような症例はすごく珍しいもので、根本的な治療どころか対処療法もわからないみたいだ」
「ごめんなさい。私が強い体で生んであげられなかったから……。私のせいよ……」
「そんなことはない! 君はお腹を痛めて必死に頑張ってこの子を産んでくれた。僕にはできないことを成し遂げてくれたんだ。僕は……僕は本当に感謝しているんだ。君は仕事しか脳のない僕を見染めて愛してくれた。僕の足りない部分を補って支えてくれた。僕に家族の愛を教えてくれた。この世でなによりも大切な宝物を抱かせてくれた。僕は本当に君と出会ってからずっと幸せなんだ」
父さんは母さんの腕に抱かれる小さな子供の額をごつごつとした傷だらけの手で愛おしそうに撫でる。生まれて一年も経たないくらいの子供の髪は窓からの日差しを浴びて金色の麦畑のような色合いだった。
その様子を見ていた母さんの瞳から透明な雫が零れ落ちる。
「なんで私たちの娘なのかしら……。他にも子供はたくさんいるのにどうして……」
「よそう。それ以上は考えても仕方がないことだ。他人の子供の不幸を願うなんてことはしたくない」
「ごめんなさい。頭ではわかっているのだけど、この子の幸せそうな寝顔を見ているとどうしても悔しくて……」
「それは僕も同じ気持ちだよ。だからこそ、この子がずっと幸せな寝顔でいられるように僕らが努力しよう。不治の病がなんだ。ミーシャならそんなものには負けないさ」
父さんの言葉に、俯いていた母さんが顔をあげる。
母さんはなにかを言いたそうに逡巡したのちに頷いた。
父さんが子供の頬にキスをする。そして、続けて母さんの唇にも触れるだけのキスをした。
「あたしが不治の病……?」
目の前で交わされている会話は父さんの記憶を元にしているはずだ。だから、今の会話は実際に過去で交わされたものになる。しかし、その会話で出てきた、あたしが不治の病だという話に強い違和感を覚えた。
「ミーシャちゃんは病気を患っていたのかい?」
「いいえ。そんなはずはありません。小さいころは体調を崩すことが多かったとは聞いたことはありますが、不治の病だったなんて話は一度も……」
「しかし、この記憶は事実に基づいている。少なくとも、このころのミーシャちゃんはなにかしらの病を抱えていたということになる」
否定したい気持ちがふつふつと湧いてくる。今のあたしは健康体そのものだ。むしろ健康だけが取り柄と言っても過言じゃない。
もしかしたら不治の病だったというのは父さんたちの勘違いだったのではないか。たまたま体調を崩すことが続いて、やぶ医者に診せたときに適当なことを言われてしまったのではないだろうか。
そんな考えが頭をよぎる。
「場面が変わるよ」
キャスウェルが指差す。見ると、三人の姿が徐々にぼやけ始め、水面に漂う絵具のように歪み溶けていく。
次に浮かんできたのは、モデールの森を三人の男が歩いている場面だった。
「すまないな。せっかくの非番のところを引っ張ってきてしまって」
森を歩く三人の男のうち、先頭は父さんだった。その後を続くのは熊のような背格好の男と、ひょろっとした金髪の男だった。
「そんなこと気にしないでください。グリフィスさんの頼みだったら俺たちは喜んで着いて行きますよ。なあ、トーラス」
「……まあ、グリフィスさんにはお世話になってますし、仕事だって言うなら文句はありません。でもラウルさん、起こすときはもっと優しくしてくれないっすか? 胸倉掴んで揺すられるとか寝起き最悪なんすけど」
「何度も声かけたのに起きないお前が悪い。どうせ昨日も女の尻を追っかけて遅くまでほつき歩いていたんだろう? 宿舎には門限があるのを忘れたのか?」
「きつい仕事に訓練もあるんじゃ気分転換でもしないとやってけないですよ。それに今日は元々休みだったんだから少しぐらい大目に見てくれてもいいじゃないっすか」
「ルールとは全体の協調性を保つためにあるんだ。お前だけ例外なんて許されるとでも?」
「……俺の夜歩きは巡回も兼ねてるんです。遊びつつ仕事もこなす、それが俺の流儀です。残業代請求しないので、それでチャラってことにします」
「なんでお前が決める側なんだ」
ラウルさんに軽く頭を小突かれて、トーラスさんは大げさに痛がる素振りをした。それを父さんが微笑みながら見守っている。
これはまだ父さんが監督署の班長の任に就いていたときの記憶だ。
ラウルさんもトーラスさんも、当たり前だけどあたしの知っている姿よりもずっと若い。それが少しだけ寂しく感じた。
申しわけ程度に整備された道を三人はペースを崩すことなく歩き続ける。
「いいんですか」
しばしの沈黙ののち、トーラスさんが口を開いた。
「言ってくれれば、俺とラウルさんで密猟者の痕跡探しぐらいやります。わざわざグリフィスさんが出張ってこなくても大丈夫ですよ。今はこんなことよりもミーシャと一緒に──」
「トーラス!」
静かな森にラウルさんの鋭い怒声が響く。時間が止まってしまったかのように、森の動物たちの声も風も止んでしまった。
「いいんだ」
父さんがラウルさんを諭すように言った。ラウルさんは眉間に皺を寄せたまま、視線を落とす。
「ありがとう。娘を心配してくれて。でも大丈夫だ。ミーシャのそばにはクレアがついているし、今は薬を飲んで落ち着いている」
「治す薬見つかったんすか!?」
「いいや、解熱効果のある薬草を煎じて飲ませている。本当はもっといい薬を試してやりたいんだが、この辺じゃ手に入らないし、あったとしても高額でとてもじゃないが手が届かない」
父さんの言葉に二人とも悲痛な面持ちになる。トーラスさんは手を強く握りしめているせいで、体が震えていた。
「人生ってのは中々上手くいかないもんだ。可能性があるのならば試したいが、手を伸ばすことができる者は金によって選別されてしまう」
悲しいことだが、それが現実だった。
命は対等ではない。権力を持つものの匙加減で高くも安くもなってしまう。
父さんとラウルさんが淀んだ瞳のまま俯く。ただ、トーラスさんだけは違った。
「……ならグリフィスさん、俺今月の給金いらないっす。それを足しにしてなんとか薬買えませんか」
トーラスさんの提案に父さんはとても驚いた顔をした。更にラウルさんも同調する。
「お前だけにいい恰好はさせないぞ。グリフィスさん、二人分の金を合わせれば、少なくとも今よりも質のいい薬を買えるはずです。お願いします、どうか使ってください」
「二人とも……」
二人の顔は真剣そのものだ。自分の生活だってあるだろうに、あたしを助けるために投げ出してくれる。
胸に熱いものが込みあげてくる。鼻の奥がつんと痛くなった。
「俺には家族がいません。生きているのかも、死んでいるのかもわからない。子供のころの記憶はほとんど人からなにかを奪っているか、奪われているかでした。俺を守ってくれる大人なんていなかった。親という存在がいなかった俺には、人から優しさを向けられることは一度もなかった。でも、グリフィスさんは違った。なにもない俺に、服と飯と仕事を与えてくれた。それに自分の家族を紹介してくれて、人の暖かさを教えてくれた。ミーシャを抱かせてくれたとき、俺誓ったんです。この恩を返すにはこの子を守るほかないって。俺の汚い手じゃミーシャの手を引いてやることはできないけど、それでも影から見守って、いざというときに盾になってやることならできる」
トーラスさんは顔を紅潮させながら父さんに想いをぶつける。
恥ずかしい。トーラスさんがこんな風にあたしを想ってくれていることなんて知らなかった。
本当に恥ずかしい。あたしはこんなに想ってくれる人にひどい態度をとっていた。
「ありがとう。二人とも本当にありがとう。気持ちは本当に嬉しいよ」
父さんは声を詰まらせながら、二人に礼を言う。
「でも、それは受けとれない」
「どうして!」
トーラスさんが悲鳴じみた声をあげる。
「確かにその金があれば今よりもいい薬を買い与えてやれるかもしれない。ミーシャに少しでも苦しい時間から解放させてやることができるかもしれない。でも、それは全てかもしれないという可能性の話だ。根本的な解決にはならない」
「それはそうかもしれませんけど、試さないことにはわからないじゃないですか!」
「だが金だって無限にあるわけじゃないだろう。二人だって自分の生活がある。協力してくれるという気持ちは本当に嬉しいよ。でも、それではお前たちの未来はどうなる。もし命をかけて守りたいと思う人が現れたとき、僕たち家族が二人の枷になってしまっては申しわけがない。二人には自分自身の幸せを探して欲しんだ。ミーシャのことは親である僕たちの手で解決しなければならないんだよ」
「でも……でも、このままじゃあミーシャはどうなっちまうんですか! あいつの命がいつ尽きちまうかもわからないのに、なにもしないでいるなんて俺にはできません!」
トーラスさんの目元に光るものが見えた。あたしの未来を憂慮して涙を流してくれている。
あたしの頬にも熱い涙が伝っていた。
「もちろん僕たちだってなにも考えていないわけじゃない」
「なにかいい方法でもあるんですか?」
ラウルさんの問いに、父さんは答えなかった。
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