三十六話
36
「ああああああ! はは……は、ははは、はははあああああああ!」
歪んだ口から吐き出される悲嘆の慟哭が諦観した笑い声に変わる。そして、また慟哭へ戻っていく。
溢れて止まらない感情だったものがミーシャを汚染していく。
家族三人で過ごした楽しい記憶。父がいなくなってからの辛い記憶。監督署に入職し先輩職員たちに助けられながら、森に生きる全ての生命を慈しむ喜びを知ったときの記憶。
アーリィやキャスウェルと出会い、全ての真実を知ったときの記憶。
全てがよかったわけではない。全てが悪かったわけではない。
正反対の感情を持つ記憶同士がぶつかり合い、少しずつひび割れていく。
なんででこうなってしまったのだろう。どの選択を間違えてこうなってしまったのだろう。
もう引き返すことはできないという事実だけが胸にのしかかり、もう見ることの叶わないあり得た未来を想像して更に深い闇に捕らわれる。
闇は底なし沼のようにミーシャの体と心にゆっくりと絡みつき、引きずり込む。そしてその沼に沈みゆく感覚が、ミーシャをより昂らせる。
「あああああああああ……あ! あ! あ! あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーあああああああああああああああああああああああああ!」
地面に伏して声の塊を人間の理性というフィルターを通さずに吐き出す。
悪魔の雄叫びのような慟哭を吐き出せば吐き出すほど、沼に飲まれていく体が痛む。だが、体とは正反対に心は満たされていくような気持ちよさを感じてしまう。
「今度はあたしがお前から全てを奪ってやる! 仕事も仲間も家族も、お前が大切にしている全てを! お前が終われば次はトーラスだ。あいつも兄貴面してあたしを見くだして馬鹿にしてたんだ……糞が! 監督署の連中も同じだ。誰一人逃がさない。父を代償に手に入れた幸せを享受している人間は全てあたしの敵だ。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……」
体の痛みを無視して、心を満たす気持ちよさに酔ってしまう。酔っていれば心は壊れない。いつかきっと体の痛みも感じなくなるかもしれない。
その証拠に、一言殺すと口にするだけで痛みが弛緩し、陽だまりに包まれたときの全身が痺れるような感覚に酔いしれる。
心が気持ちいい。
「ミーシャ……すまない」
とうとう夕日が役目を終えた。夜の帳が下りた森に、跪き純粋な殺意と、それをただ受け入れた二人の影が浮かびあがる。
その様子をなにも言わずに眺め続ける影があった。
翠色に染まった瞳。無機質な人形のような表情を浮かべ、影は愛を囁くように。
「ミーシャちゃん……君は」
影は一呼吸置いて、そして、その整った顔を醜く歪めて言った。
「君は……本当に馬鹿な子供だ」
「馬鹿って何味なの?」
不意にかけられた言葉は、濁りのない疑問に満ちていた。言葉をようやく話すようになった子供がただ気になったことを親に尋ねるような素朴さ。
その場にいた全員が声のした方に視線を送る。
そこいたのは一人の少年だった。歳の頃は十代前半か。
足元まで伸びた黒髪は枝毛がひどく、顔を覆う髪から時折見える血の気のない顔はげっそりと痩せこけている。
髪の間から覗く見開かれた瞳は、強膜が黒く変色し、角膜から瞳孔は薄い翠色を宿していた。
服はひどく擦り切れ覗くあばらは、今にも皮膚を破ってしまいそうなほど骨が浮き出ている。
生者か死体かと問われれば、誰もが死体だと答えるだろう。
少年を見た途端、体のなかで猛り狂っていた感情だったものも、体の痛みも心の気持ちよさも、一瞬のうちに元々存在しなかったかのようにかき消えた。
ミーシャは少年を見つめる。痛々しい少年の姿を茫然と見つめ、そして、既視感を覚えた。
この光景を最近見たことがあるような気がする。いつ、どこでだったか定かではないが、一言二言、言葉を交わしたことがあったような気がする。
が、肝心の具体的なことは思い出せない。まるで記憶の引き出しを開けようとする手を誰かに払われているかのようだった。
少年が左右に揺れる。その度に長い前髪から覗く翠の双眸が怪しく瞬く。
「こ、子供?」
ラウルが間の抜けた声で呟く。
「ねえ。馬鹿の、味って、何味なのかな」
歌うように言う少年の声は無邪気な子供の声だった。
突然現れた少年にラウルは理解が追いついていない様子だ。だが、ミーシャは一つだけ、本能で確信していることがあった。
あの少年から逃げなければとり返しのつかないことになる。
「馬鹿って、いうのは、そいつでしょ。馬鹿って、どんな味が、するのか、知りたい」
少年は触れるだけで折れてしまうそうな細腕をあげ、骨と皮だけになった指をミーシャに向けた。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。途端、体を縄できつく縛りあげられたかのような感覚に襲われる。
「かはっ……」
嫌だ、と言おうとした。しかし、じりじりと体を締める力は強くなり、肺が圧迫されて詰まった息が出るだけ。
この感覚にも覚えがある。
これは絶対的な強者が放つ殺気。獲物はこの殺気から逃れることはできない。
体は恐怖で足に根が生えてしまったかのように動かず、仮に動かすことができて、その場から逃げ出したとしても一度理性で想像してしまった可能性は永遠に人の脳に残り続ける。
喉にかかる刃。心臓を握りつぶされる感触。体を生きたまま食い尽くされる苦痛。
実際に経験していなくとも、その恐怖はいつまでも残り続ける。朝起きた瞬間、昼食を終えた瞬間、夜眠る瞬間。
恐怖はいつでもこちらを覗いている。
お前の命は常にこちらの手中にある。いつでも殺すことができると語りかけてくる。
人間では発することのできない殺気は、ただの少女であるミーシャでは抗えない。
少なくとも絶望的な死の恐怖と戦った経験のないミーシャでは逃れることなど到底無理な話だ。
「うん……?」
少年が指を差したまま首を傾げた。さらさらと流れる髪の間から黒で強調された翠の瞳が。
「なぁんだ、そういう、こと」
三日月を描いた。
「ミーシャ! 逃げ──」
三日月が揺らいだ。同時に体が弾かれた。それがラウルに突き飛ばされたと理解したのは、視界が赤に染められてからしばらく経ってからだった。
何が起きたのかはわからない。
ただ、ほんの数舜前までそこにあった少年の体が爆散していた。
爆散といっても、その瞬間を目撃したわけではない。ただ、漠然と少年がいたはずの場所を見てそう理解した。
あの血の失せた体に入っていたとは思えない大量の血液。飛び散った肉片。砕け散ったどこかの骨。足元に転がる少年の眼球。耳に残る肉の破断する音と、血肉が木々や地面に叩きつけられる音。
人の形だった無残なそれらから、嫌でも理解させられる。
気が触れてしまえば楽だったかもしれない。だが、突き飛ばされたときに軽く頭を打ってしまったせいで視界が揺れて見えることを除けば、ミーシャは酷く冷静だった。
「あ……ラウル、さん」
視線を足元に向けると、ラウルの体が糸の切れた人形のように地べたに倒れていた。
白目を剥き、恐怖に歪んだ顔には少年の血と肉辺の一部がこびりついている。
「ふはははははははは」
キャスウェルが突然奇声じみた笑い声をあげながら、ミーシャを包み込むように背中から抱きすくめる。
体を揺らしながら笑うキャスウェルの振動がミーシャにも伝わり、体がキャスウェルに呼応するように揺れる。首だけで振り返ると、足元に転がっている眼球と同じ色をした翠の瞳が眼窩から零れ落ちそうなほど見開かれていた。
「これだ……これを待っていた! 少々予想していた展開とは違ったが、ようやくだ。ようやく長年の夢が叶うときがきたんだ!」
恋人を慈しむように抱きしめられ、すぐ側にあるキャスウェルの顔に一瞬だけ顔の熱があがりかけたが、すぐにその熱よりも痛みに顔が歪んだ。
「痛いっ」
キャスウェルの腕の力が強くなっていく。それは大切な人を離さないようにするためというよりも、手中に転がり落ちてきた獲物を逃がさないように羽交い絞めにしていると表現にした方が正しい。
身じろぎすらできないほどきつく締めつける腕にミーシャは嫌な気配と臭いを感じた。
「キャスさん……離して。痛いです。離してください」
「ああ。ごめんよミーシャちゃん。つい嬉しくって興奮してしまった」
キャスウェルは柔和な笑みを浮かべ、謝罪を口にする。しかし、腕に込めた力を緩めようとはしない。むしろ、更に肋骨を締めつけるように力を込めてきた。
「でもでも、それも今回ばかりは許して欲しい。だって今日は僕の人生で一番の幸福な日になるかもしれないんだから」
「どう、いうこと。どうしちゃったの……?」
食い込む腕に内臓が圧迫されて息が苦しくなってきた。腕を解こうと身じろぎするが、意にも介さない様子のキャスウェルは、むしろミーシャの抵抗を喜ぶような含み笑いを口の端から零している。
「ミーシャちゃんと同じだ。僕にも幸せになるときがきたんだっ」
「なにを言っているの」
幸せと口にするたび、キャスウェルの瞳が大きく開かれる。始めて見たときと同じ輝きを放つ瞳は宝石のような美しさだ。だが、その美しさに混じる邪悪な色をミーシャは見逃さなかった。
「あの、子供と関係があるんですか」
ミーシャの言葉にキャスウェルは大仰に溜息をつく。
「おいおい、あれが子供に見えたのかい? だから君は馬鹿だというんだ。あれはまさしく神だよ。この世界の原理も真理も交わらない外界の神。彼こそが人間が神と崇める存在の始祖さ」
享楽に耽り歌うように語るキャスウェルはこれまでとは別人のようだった。温和な雰囲気も、柔らかい声もない。背中から伝わってくるのは悪魔に心も体も乗っ取られ、狂気を孕んだ異質な存在感。
抵抗すればなにをされるのかわからない。その恐怖がミーシャの警戒心を少しずつ呼び起こす。
「あ、あの……離して」
この体勢でいるのは危険だ。抵抗する術がない。どうにかしてこの状況から脱しなければ。
ミーシャは肩を揺らして少しでも締めつけの綻びを作ろうとするが、それを抑え込むようにキャスウェルの抱きしめる力は強くなるばかり。その強まる力が余計に恐怖を掻き立て全身が強張る。
「は、離してよ……離して!」
「なにを怖がっているんだい? 僕たちは幸せのために同じ道を歩もうと誓った仲じゃないか。友人よりも恋人よりも濃くて深い仲のはずだよね。今更拒絶なんてしないでよ」
「そんな誓いなんてしてない……」
「おいおい、そんなこと言ってもいいのかい? ミーシャちゃんのお父さんをとり戻せるのは僕だけなんだよ?」
「それは……」
「僕たちは運命共同体なんだ。裏切りなんて絶対に許さない。それともなにか? 今になってやっぱりそこに転がっている男に情でも湧いたのかな」
地べたに仰向けに倒れているラウルに視線が向く。
そんなはずはない。今だってラウルを許そうだなんて思わない。しかし、突然現れた少年と、その少年を神の始祖と呼ぶキャスウェルの変わりように言いようのない不安と恐怖が混ざり合い、怒りを凌駕している。
このままでいいのだろうか。このままキャスウェルの言葉を信じてしまってもいいのだろうか。今更になってそんな疑念がミーシャの心を揺り動かしていた。
「くははは! 面白いねミーシャちゃんは!」
そんなミーシャの心の内を見透かしてなのか、キャスウェルは心から愉快だというように高らかに笑う。
「馬鹿で、愚か者で、世間知らずな可愛い子供。だから、つけ込まれるんだよ」
キャスウェルは抱きしめていたミーシャを突き飛ばし、傍らにある少年の眼球を両手ですくい上げ、慈愛に満ちた瞳で見つめると愛おしそうにそっと口づけした。
「自分の世界に捕らわれているだけでは、人は成長しない。誰よりも、どんな権力者よりも望みのものを手に入れたいと思うのならば、まず知ることを諦めてはいけない。参考になる人間はいくらでもいるだろう。その人間の仕草や、思考、哲学を盗んで自分の糧にしていく。そうやって人は子供から大人になって行くんだよ。ミーシャちゃんはどうかな。こういうことを考えたことあるかな」
十年間、常に頭にあったのは家族をとり戻すという願望だけだった。周りにいた大人は、遅くまで帰ってこない母親。父の捜索を断念した大人。母子家庭となり、哀れみと蔑みを込めた目を向けてくる大人たち。
誰かからなにかを学ぼうと考えたことはなかった。
全て自分の責任のうえで学び、実践してきた。そうすれば、きっと自立した大人になっていくのだと思っていた。しかし、それは建前だ。本当は誰かに助けて貰いたいと思いながらも、誰も助けてはくれないのだと心は諦め、自分の殻に籠っていただけだった。
わかっていてもやめられなかった。
そうしていることが当たり前で、そうしていることで自分の寂しさを埋めていたから。
「見ているのは常に自分の世界だけ。感じているのは常に過去の世界。浸る思い出はいつも家族で幸せにすごしていた日々。そんなことだからよく知らない僕みたいなやつの甘い言葉にほいほい釣られてしまうんだよ」
「え……?」
「本当に魂移しなんてものがあると思ったかい?」
歪めた唇を更に吊り上げ、キャスウェルは吐き捨てる。
「そんな都合のいいものあるわけないじゃないか。人の魂を他人に入れ替える? 馬鹿で世間知らずもここまできたらある意味幸せ者だね。苦しむだけの人生に差し込む一筋の光りなんてものを本当に信じてしまうんだから」
「ちょっと待って! キャスさんはあたしの父さんを助けてくれるんじゃ……」
「なんで僕がそんなことしなきゃならないんだよ。アシュマンが人間を救うなんて話本当に信じたのかい? 下等な人間ごときを救うメリットがどこにあるっていうんだ」
蔑みと軽蔑の籠った声色で告げられる真実は残酷で、それでもまだ真実を受け入れることができないミーシャは、揺れる思考の隅でこれは嘘なんだと否定できる条件を探した。
このキャスウェルは実は偽物で、アーリィがミーシャを混乱させるために嘘をつかせているのだ。
捕らわれたキャスウェルが魂移しの技術をアーリィに存在しないと思わせるために一芝居打っているのだ。
実際には魂移しも実在し、グリフィスの魂を移しかえることもできる。だが、それはアーリィにとって都合の悪いことなのだ。
たとえばその技術を一度使ってしまえば、次に使えるようになるまでに途方もない時間がかかるとか。わからないけど、そんな理由があって、魂移しを行いたいと願うミーシャを諦めさせようとしているとか。
どれが正しいのかはわからないけど、きっとそんなことだ。だってそうじゃなきゃ、これまでの努力はなんだったというのだ。
「おや、今度は現実逃避かい。今ここにいる僕は偽物で、アーリィ・リアトリスが僕を語って君の望みを諦めさせようとしているとでも考えているのかな? そして、君を利用して僕の技術を盗もうとしている、とか。全く……救いようのない馬鹿で可愛いね君は。キスしてあげたいくらいだ」
眼球に口づけをした唇を赤い舌が舐める。艶めかしく濡れ、歪んだ唇からかみ殺しきれない嘲笑が漏れ出す。
「本当、なの?」
キャスウェルは答えず、代わりに大仰に首を垂れてみせた。
「なんでこんなひどいことするの……」
「うん? 君と同じだよ。僕は僕が幸せになるために選択をしたんだ。自分の幸せのために誰かを不幸にする選択をね。その不幸を受ける対象としてミーシャちゃんはたまたま選ばれただけにすぎない。まあ、君もだいぶ不幸な目にあってきたみたいだから、心が痛まないと言えば嘘になるけど、それでも僕がこの身に受けてきた不幸と比べれば大したものじゃない。僕は六百年もの間、不幸に犯され続けてきたんだから」
「……工房で見た父さんは本物なんですか?」
「君が工房で出会ったグリフィスは正真正銘、君の父親のグリフィスだ。森で拾って、利用価値があったからそばに置いておいたんだ。まさかこんな形で彼の娘との縁を持つことになるとは思わなかったけどね」
「嘘……嘘だよ、そんなの……」
「嘘、か。そうだ、君の仕事仲間がグリフィスを貶めたという話だけど、あれも嘘だ」
脳裏によぎるのは、グリフィスの拒絶を受けた日の夜のこと。
絶望の淵にいるミーシャに寄り添いグリフィス失踪の真実を打ち明け、救済の手を伸ばしてくれたあのときの顔。
ミーシャはキャスウェルに憧れ以上の感情を抱いた。それは、まだ大人になり切れない子供には処理しきれない感情。
もしかしたら、恋心に似たものだったのかもしれない。
愛にも種類があるというのはなんとなく理解はできる。だが、まだ経験のないミーシャにはそれが明確にこれだという確証を持つことはできなかった。
まだ子供のミーシャには朧げに見えているだけ。
でも、それでもよかった。十年苦しんで、家族という関係に固執し、とり戻そうと苦心し続けてきたミーシャには、流れに身を任せ、その形を変えていく雲のような不確定なものでも十分だった。
この十年で明確な形を見せてくれたのはキャスウェルだけだったから。
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