三十五話
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「起きて、ミーシャちゃん」
頬にそっと添えられる手の感触で目が覚めた。ミーシャを見おろすキャスウェルの翠瞳ふっと弧を描く。
洞窟で目を覚ましたときもこうしてキャスウェルの顔を見たな、と他人事のように思った。
「キャスさん……やっと会えた」
「ちょっと野暮用ができてしまってね。一人にしてしまってごめん」
申し訳なさそうに眉を歪め謝罪するキャスウェルに安堵する。
体を起こそうとすると、キャスウェルがそっと背中に手を回して支えてくれた。
「あれ……キャスさん、怪我してるじゃないですか」
「ああ、これね」
キャスウェルから漂ってきた埃っぽい匂いを手繰ると、ひどく汚れた恰好をしていることに気がついた。白いローブは破れ、あちこち焦げたような跡がある。綺麗だった顔にも擦り傷や、殴られたような痛々しい痕があった。
「どうしたんですか……。大丈夫?」
「うん。怪我は大したことはないんだ。ただ、相手がしつこくてね。ここ最近は逃げまわるだけで精一杯だったんだ」
「相手って?」
「アーリィ・リアトリスだよ」
その名に頬が強張る。
「ミーシャちゃんが帰ってから二日後だったかな。彼女が僕の元をまた訪ねてきたんだ。目的も告げずに、ただ黙って僕にナイフを突きつけて襲ってきた。危うく殺されそうになったけど、なんとかその場から逃げ出してそれからは森中を逃げ惑う日々だった」
「そんな……。あの、工房にきたってことはグリフィスさんは……」
「ああ。グリフィスなら大丈夫だよ。異変を察知して、先に隠し部屋に逃げ込んだみたいだから」
その言葉にミーシャはそっと胸を撫でおろした。
周囲を確認すると、景色は変わっているがモデールの森にいることは間違いないようだった。
だいぶ傾いた太陽は背の高い木々の向こうに隠れてしまい見ることは叶わないが、茜に染まった空がどれくらい時間が経ったのかを思わせる。
キャスウェルが脱がせてくれたのだろうか、自分の体を見ると意識が途切れる寸前まで着ていた防護服姿ではなかった。
脱がされても困る恰好をしているわけではないが、異性に衣服を脱がされたという事実に背中が少しだけむず痒くなる。
「でも、どうしてキャスさんが狙われるんですか。始めてキャスさんの工房に行ったときにはそんな様子はなかったと思うんですけど」
「どうやらあの女は魂移しのことを知ってしまったらしい」
「アーリィさんがですか?」
「ああ。変換のタトゥーと魂移しの技術を寄こせと要求してきたよ」
「じゃあ、早くしないとあの人に全部奪われちゃう!」
「落ち着きなさい。根本的な解決にはならないが、ちょっとした時間稼ぎをしてきた。あの女から逃げる最中に監督署の人を見かけたから鉢合わせるよう誘導したんだ。どれだけの時間が稼げるかはわからないけど、とりあえずは大丈夫だよ。それに魂移しの方法は僕の頭のなかにしかない。そう簡単に盗まれやしないさ」
監督署の人とは恐らく、後発の灰菌症対策班のことだろう。
キャスウェルは自身満々に言い切ったが、ミーシャはその言葉には素直に頷けなかった。アーリィ・リアトリスなら監督署の包囲網など簡単に突破できるだろうし、戦闘になったとしてもとり押さえられる人などいないはずだ。
「それに逃げている合間も準備は着々と進めてきたんだ。予定よりもちょっと時間がかかってしまったけど、必要なものは全て揃えることができた」
「でもあたし代りを……」
「心配はいらないよ」
キャスウェルはキザにウインクをすると、ミーシャの後ろを指さした。振り向くと、そこには一人の人物が縄で後ろ手に縛られた状態でうつ伏せに寝かされていた。
「ラウル……さん」
「彼がグリフィスの依り代なんだろう?」
身じろぎすらしないラウルに四つん這いで近づく。ラウルはミーシャと同じく防護服を脱がされていた。体を仰向けに起こして露になった首に、そっと震える手を当てて脈を計る。
始めの脈動を感じるまでの時間がやけに長く感じた。が、暖かい首筋から手に伝わるわずかな脈動にほっと安堵の溜息が零れた。
大丈夫。死んでいるわけじゃない。
「さっきミーシャちゃんを助けたときに、すぐそばにいたんで一緒に連れてきたんだ。一目でわかったよ。グリフィスの代わりになるのは彼なんだって。彼なら体格もそこまで変わらないし、きっと適合するはずだ。ミーシャちゃんもいい依り代を見つけてくれたね」
「……そう、ですね」
ミーシャはラウルの額についた泥を袖で拭った。
「それにしても驚いたよ。あれに憑りつかれてよく無事だったね」
振り返りキャスウェルを見る。
「あれって?」
「あの虫たちだよ。覚えてない?」
虫、という言葉に体を這いずり回る感触が蘇る。
「そうだ……。あの空を覆い尽くしていた虫たちはなんですか。あんなのモデールでは見たことない」
ミーシャの問いに、キャスウェルは見たくないものから目を背けるように空を仰いだ。
「あれは世界にとり残された未熟者。自分を許すことができない愚か者たちの集合体だ」
空を見あげていたキャスウェルの瞳が鋭く細められる。その瞳に浮かぶ嫌悪の色をミーシャは見逃さなかった。
「何故虫の姿をとっているのかはわからない。僕が知っているのは、あの虫たちは人やモノが願いを叶えられず、アシュマンに生まれ変わることもできなかった劣等個体の集まりだということだ。尊大な夢を胸に抱いたまま無様に死んでしまったばかりに、同じ想いを持つ存在を疎み、妬み、敵意を持っている。誰かが願いを叶えることが容認できない。自分たちはこんなにも苦しんでいるのに、誰かが幸せになるなど認めることができない。他を羨むことに執着してしまった愚か者たちなんだ。しかも厄介なことに、あれらはこちらを引きずり込もうとする。一度でも食いつかれるとずるずると後悔や無念に蝕まれ、肉体と精神は朽ち果て、長い時間をかけて虫のような姿に変えていってしまう。疫病そのものさ」
鼻頭に皺を寄せて唾棄するように言う声は、聞いているだけで底冷えしてしまいそうなほど冷酷で、まるで別人のようだ。
あの虫たちに対する憎悪が透けている。だが、襲われたばかりだというのに、聞かされた虫たちの正体にミーシャには同情していた。
何故ならその本質がアーリィやキャスウェルに出会う前の自分と同じだったからだ。
「そんなになってまで自分を縛らなくてもいいのに……」
「同情なんていらないよ。彼らにはそうしてやるだけの価値はない。それに、彼らもいつかは食われる側になる」
「なにに、ですか」
「魔人にだよ」
首筋をぬるい風が撫でていく。
「君はその魔人を一度見ているはずだよ」
「あたしが?」
「ああ。しかもここ最近に」
視線をミーシャに戻したキャスウェルの翠眼の輝きが一段と増す。その光が眼球を通り、脳まで達して記憶を探られるような錯覚に襲われる。
何故そんな目で見てくるのかミーシャにはわからなかったし、キャスウェルの言う魔人に該当するものを見た覚えもなかった。
それでも責め立てるような眼差しを向けてくるキャスウェルに困惑していると、濃い落胆の色を浮かべながら溜息を吐かれた。
「……わからないならそれでもいいよ。別に問題があるわけじゃないから」
諦めるような物言いに、焼かれるような焦燥感が胸に広がる。
今まで励まし肯定し続けてくれたキャスウェルから向けられる失望は、ミーシャの心を容赦なく揺さぶる。
「……ミーシャ」
ミーシャが押し殺しきれない不安のまま口を開こうと瞬間、腕のなかで呻くような声が聞こえた。視線を落とすと、怯えと戸惑いの入り交じった顔でラウルがミーシャを見つめていた。
「お前、一体誰と話しているんだ……?」
どうやらラウルにはキャスウェルの姿は見えないようだ。
「え……あー……」
「おや? 意識をとり戻したか。思ったよりも早かったな」
ミーシャがラウルへの返答に詰まっていると、キャスウェルがラウルの顔を覗き込んだ。そして、満足気に頷くと口角が耳まで吊りあがって見えるほどにねっとりとした笑みを浮かべた。
「問題なし。もしかしたらあの虫たちに食われて廃人になってしまったかと危惧したけど、どうやら精神がとてもタフな人間みたいだね。よかったねミーシャちゃん。これは朗報だよ」
「なんでですか」
「短い時間だったとはいえ、あの虫たちに食いつかれて正気を失っていないということは、相当の精神力の持ち主だってことだ。並みの人間ではこうはいかない。よほど強固な意志を持っているんだろうね。これならグリフィスの器には申し分ない。完璧だよ! あははははははは!」
キャスウェルは手を打ちながら天を仰いだ。そして、玩具を与えられた子供のように無邪気に笑い声をあげる。
「だから誰と話してるんだって。というかここはどこだ? 確か灰菌症の調査をしていて……そのときになにかあったはずなんだが。ああ、だめだ……記憶がどうも怪しい」
ラウルはミーシャに支えられていた状態から、自分で体を起こし胡坐をかいて頭を押さえたまま唸る。
どうやらあの虫たちに襲われた直後からの記憶が混濁しているようだ。
「あたしにもわかりません。目が覚めたらここにいたので」
「そうか。トーラスの姿が見えないのが心配だが、あいつのことだから自分でなんとかするだろう。それよりも」
ラウルはミーシャに向き直り、探るような目をした。
「怪我はないか?」
「はい」
「頭が痛いとかは」
「ありません」
「俺の指は何本に見える」
「三本です」
ミーシャの眼前に立てられた太い指の数を答える。どうやらキャスウェルに話しかけていたのを、頭を打って幻覚を見ていると勘違いしているらしい。
「本当にどこにも違和感はないんだな?」
「ありませんよ」
「そうか……。いや、本当に平気ならそれでいいんだ」
口ではそう言いつつも、明らかになにかを言いたげにしている。だが、結局ラウルはそれ以上踏み込んで聞いてくることはなかった。
ざあっと枝葉が揺れる風が吹き、なびいた髪が唇をくすぐる。それが嫌で耳に髪をかけた。
「お前の髪は本当にグリフィスさんにそっくりだな」
「なんですか、いきなり」
唐突に言われ目を丸くしていると、ラウルは視線をどこか遠くへやったまま、少し嬉しそうに言った。
「グリフィスさんも少し髪に癖があったよ。直しても直しても寝ぐせみたいでみっともないとよく愚痴をこぼしていた。だけど、そのくせ毛がトレードマークでもあったし、穏やかな性格を象徴しているようでても似合っていた。お前はそこまでくせ毛が強いわけじゃなけど、それでも見ているとどうしても重ねてしまう」
「……ラウルさんがあたしの父さんの話をするなんて始めてですね」
「お前がモデールで働くようになって、俺はいつもあの人の影を見ていたよ。ふとしたときにする仕草や、仕事に集中しているときの雰囲気が本当にそっくりでな。……とても懐かしい気持ちだった」
唐突に始まったグリフィスの思い出話に、反抗心が頭をもたげた。しかし、今まで一度もミーシャにグリフィスのことを話そうとしなかったラウルに、どのような心変わりがあったのか純粋に興味があった。それに、もしかしたらという思いがあった。
全てを打ち明けてくれるのではないか。自分の罪を懺悔し、向き合うつもりなのかと。
「ラウルさんにとって父はどんな人でしたか」
だから、一番に聞いてみたかったことを正面からぶつけた。
「そうだな……。友でもあり、師でもあり、この世で一番信頼の置ける人だった」
嘘ではないのだろう。追憶する顔は今まで見たことがないほどに穏やかなものだった。
ただ、その顔を見ていると下腹部にざわざわとした悪寒がする。
「人や自然を傷つけることしか知らなかった俺に、慈しむ心と居場所を与えてくれた。恩人なんて言葉では軽すぎる。俺は……グリフィスさんにおふくろの話でしか聞いたことのない父親を重ねていたのかもしれない」
だとしたら何故、貴方は裏切ったのですか。
父親と重ねてしまうほどに貴方は……。
「子供ができたと知ったとき、随分悩んだ。父親ってのがどんな存在なのか俺にはわからなかったからな。馬鹿なりにたくさん考えて、それで俺は一つの答えに行あがらせられる優しさとおおらかさを持った男こそが、俺の理想とする父親像だと。まあ、俺みたいな人間があの人のようになりたいなんて畏れ多いが」
父を信頼し、友人以上の絆を感じていたのでしょう。
それなのにどうして、幸せを壊すようなことができたの。
「あの夜、お前に言われた裏切り者という言葉の意味をずっと考えていた。否定はしない。俺は……グリフィスさんのためになにもできなかったのだから」
ふざけるな。
「ただ、これだけは言わせてくれ。俺はお前を家族だと……娘だと思っている。力不足だとは思うが、俺はグリフィスさんの代わりに父親の役目を果たしたい。だから、今すぐにとは言わない。だがいつか許してもいいと思える日がきたら俺を父親だと思って頼ってくれないか」
ジジジと髪をかけた側の耳の奥で蝉の鳴くような音が聞こえた。
足先が冷たい。太ももが冷たい。胸が冷たい。頭が冷たい。
全身の血液が沸騰する。
「ふざけるなあああああああああああ!」
その顔が、その声がどうしても我慢ならない。
父を貶めて奪ったくせに、どうして父親だと思って頼れなどと言えるのか。
「どうしたんだ──」
「そうやってあたしを心配するふりも、あたしを守ろうとするふりも、全部! 全部嫌なんだよ!」
気持ち悪い。
目の前にいるラウルが、人の皮を被った化け物のように見える。
「全部知ってんだよ。あんたがしたことも、トーラスのしたことも、監督署の奴らが父さんをどう思っていたのかも! 全部全部! 幸せだったか? 楽しかったか? あたしの父さんを生贄にして自分たちの幸せを手に入れて満足だったのかって聞いてんだよ!」
猛り狂うミーシャの顔に朱色の夕日が当たり影を作る。照らされる側の瞳は涙を、陰に飲まれた側の顔には怨嗟の色に染まった瞳が、ラウルを射抜く。
「父さんを貶めて手にした権力はどうだ。自由に人生を生きる幸せはどうだ。家族を持って、自分だけが幸せになるってどういう気持ちなんだ。教えてくれよ。惨めなあたしに!」
決壊した感情の濁流が十年間の葛藤と、真実を知ってからの苦悩を巻き込んで混ざって溶けて爆発する。
「父さんがいなくなって不幸せな人生を送っているあたしたちを見くだして、ほくそ笑んでたんだ。幸せってなんだよ。他人を貶めて手に入れるのが本当の幸せなのかよ! それで他の人が……あたしが…あたしと母さんが這いつくばって生きていかなきゃならないなんて……」
溢れる涙を拭うことすら煩わしい。心の痛みは増すばかり。だが、今はこの感情を吐き出したい。吐き出して、それで変わると期待している。
期待? なにに期待しているのだろう。
こんなにも悲しくて切なくて、もう後は願いが叶うのを待つだけだというのに。
「ミーシャ……俺は」
「うるさいうるさいうるさい! あたしの名前を呼ぶな!」
頬を伝う涙が熱い。口から漏れ出る吐息が冷たい。目に映る空も森も大地も全てが黒く染まっている。
もう理性ではなにも判断できない。なにも考えられない。なにもわからない。
自分がどうしたいのかなんて、全部わからない。
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