三十四話
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翌朝、防護服を装備しバックパックの中身の整理をすませ、ナイフと新しく支給されたライフルを背負って監視塔を後にした。
立ち並ぶ木々の幹や、地面から伸びる植物を一つ一つ丁寧に見ていく。
この広大な森を目視での捜索など非効率もいいところだが、現状とれる手段がこれしかないため致し方がない。防護服の数がもっとあればもっと人を投入できるが、ないものねだりをしても意味がない。
ミーシャは最後尾で周囲を観察する。意識の一方では灰菌症の痕跡を探しつつ、もう一方ではキャスウェルの姿を探していた。しかし、やはりキャスウェルの姿はどこにも見当たらない。
泉に行けば会えるのだろうか。キャスウェルと出会ったあの泉ならば、また虹を通ってキャスウェルの工房へ行くことができるかもしれない。
何故キャスウェルの方から会いにきてくれないのか。あの日、キャスウェルと約束を交わしたときは近くにいるからと言ってくれていたのに。
「止まれ」
先頭を歩くラウルの鋭い声と停止を意味するのハンドサインが思考を強制的に現実に引き戻す。
ミーシャとトーラスは素早く身を屈め、周囲を素早く観察する。
「なんだ、ラウルさん」
「おかしいと思わないか?」
「おかしい?」
「動物の気配がない」
言われて改めて耳を澄ませる。確かに小鳥のさえずりくらい聞こえてきてもよさそうなものだが、森のなかは不気味なほどに静寂に包まれていた。
「……静かすぎますね」
ミーシャがそう零した瞬間、進行方向先の森の奥から大地を揺るがす鼓動がミーシャたちを襲った。
バランスを崩しそうになったミーシャはその場にしゃがみ、ライフルのストックを地面に突き立てて体を支える。
「なんだ今の!?」
トーラスが驚愕の声をあげ、ライフルを浅く構える。縦一列に並んでいた三人は自然と背中合わせになる。
「地震か?」
「あれがか? 地面が揺れたっていうか、体を全方位から叩かれたみたいな感じだったぞ!」
「ミーシャ、大丈夫か?」
「はいっ」
擦れた声でミーシャは答えるが、実際は体に異変を覚えていた。
足に力が入らない。なのに、ライフルを握る手にはものすごく力が入っている。
全身から汗が滲み始める。動悸が激しくなり、呼吸も浅く早くなっている。
今の出来事に緊張している? いや、それもあるが、根本的な原因とは違う気がする。
理由はわからないが、脳が、体が、感情が、得体の知れない存在に拒絶反応を示しているようだった。
ラウルが意を決したように口を開いた。
「灰菌症の調査を中断するわけにはいかない。このまま俺たちが帰還して、灰菌症を見逃してしまえばモデールの未来は終わりだ。それだけは絶対避けなければならない。各自、一層気を引き締めて──」
ラウルが言い終わる間際、一陣の風が森を抜けた。その風は吐息のように生暖かく、全身に纏わりつくような不快感をもたらす。そして、その風に乗って、低く、怒気の籠った獣の唸り声が耳に届いた。
ラウルとトーラスが一斉にその風の吹いてきた方へライフルを構える。熊か狼か。それともそれ以外のなにかか。
しかし、ライフルを向けた先にはなにもいなかった。あるのはいつものモデールの光景。木々の間や草花の影に声の主を探すが、影すら見当たらない。
思いすごしか。二人が構えたライフルをおろしかけたとき、目には映らない主の咆哮が空間を貫いた。
──グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ。
木々をなぎ倒さんばかりの衝撃と咆哮。咄嗟に耳を塞ぐが、その咆哮は脳を揺らし、容赦なく三人を襲う。
「──!」
「──!」
ラウルが耳を押さえながらトーラスに向かってなにかを叫んでいるが、トーラスは聞きとれないようで、同じように叫び返す。
「二人共! 早くここから逃げなきゃ──」
この場に留まるのはまずい。本能が訴える警告に撤退を進言しようとした瞬間、突然森全体が薄闇に覆われた。
まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい。
毛穴という毛穴からから汗が先ほど以上に噴き出す。背骨に沿ってずりずりと不快な感覚を伴って鳥肌があがってきた。
見てはいけない。そう思うのに意思とは関係なく自然と顔が空を見てしまう。
そして、目の当たりにしたモノに絶句した。
空をを這いずり回るのは無数の虫たち。
──グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン。
またもや咆哮が轟く。その咆哮に呼応するように空を塗りつぶす虫たちが一斉に森を、ミーシャを飲み込もうと落下してきた。
「いや……嫌!」
ミーシャはもつれる足を動かし、虫たちから逃れよう駆け出す。だが、目がまだ薄闇に慣れないせいで、木の根に足を引っかけて倒れ込んでしまった。
ブブブと鼓膜を震度させる無数の虫たちが羽音がすぐ背後に迫る。
もう逃げられない。なんとか体を起こし仰向けになった瞬間、間近に迫る虫の顔が目に飛び込んできた。
「……人……?」
無数の虫たちの顔は怒りと悲壮感に埋め尽くされた人間の顔をしていた。
「いやあ!」
虫は獲物に飢えた獣のように一斉にミーシャに襲いかかった。渓谷の間を流れる激流の如き圧力に、全身が押しつぶされてしまいそうだ。
それだけではなく防護服のわずかな隙間をぬった虫が素肌を這いあがってきて、被り物の内側を覆い尽くし、視界を埋め尽くしていく。
「やめてっやめてってば!」
外と内から伝わる嫌悪感から逃れようとと懸命に体を捩り腕で振り払おうとする。しかし、まるで幽霊を相手にしているかのように手が虫たちの体を通り抜けてしまう。
確かにそこに虫がいる感触はある。しかし、実体がないのだ。
「ラウルさん! トーラスさん!」
そう遠くないところにいる二人に助けを求めて声をかけるも、虫の羽音が大きくて声が届いているのかわからない。
一体この人の顔をした虫たちはどこからやってきたのだろうか。どうしてあたしを襲ってくるのか。
「だっ……だれか!」
誰でもいい。誰でもいいからこの虫たちを追いはらって。
そんな思いも空しく、虫たちはミーシャの体を這いまわる。嫌悪感と疑問が同時に襲いくるなか、ふいに耳元でなにかが囁く声が聞こえた。
虫が言葉を話している。
そう理解した瞬間、臍部にずるずると異物が滑り込むような感覚があり、その異物は体中を這いずり回る。さらに呼応するように虫たちの声がうるさくなっていくと共に目の前の景色が歪み始め、聴覚、視覚、嗅覚、触覚が覚醒するような奇妙な感覚に襲われた。
それは血。それは腐肉。それは臓物。それは膿。
噎せ返る悪臭。噎せ返る不快感。噎せ返る絶望感。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の全てを犯す悍ましい気配。
体から血が滴る。腕が腐り落ちる。内臓が腐り、体を切り刻みたい衝動に駆られる。
全身を這いまわる人の顔をした虫たちの慟哭に精神を犯されていく。
この感覚には覚えがあるような気がした。自分の体が、細胞が、刻み込まれた恐怖を呼び覚ます。
ただ、その表しようのない恐怖が形を持つことはない。朧げな白昼夢のように漠然としたままに存在するだけで、それがかえって忌避感を増長させる。
死ぬのかもしれない。
ミーシャは形を持たないソレに逃れようのない畏怖を抱きながらも、どこかその様子を俯瞰しつつ思った。
罰が当たったのだろうか。目的のためにラウルとトーラスを利用しようとしたから。
でも、どうしてあたしだけが……。
もっと罰を受ける人間は他にいるだろう。人を裏切り、殺し、その家族を欺き続ける人間が。
奴らに比べれば大したことではないのではないか。まだ他人の幸せを奪ったわけではない。誰かが不幸せになったわけでもないのに。
ミーシャは虫たちの慟哭に成す術なく体を犯され続けるしかない。
すでに抵抗する気力はほとんど残っていなかった。されるがまま、虫たちの悪意に溺れるだけ。
「……しも……せに」
漫然と最後のときを待っていると、慟哭のなかに人の言葉が混じって聞こえた。意識して耳を傾けなければ聞こえないようなもの。しかし、完全に聞こえないというわけでもなく、打ちつけるような慟哭のなかに浮かびあがるかのように聞こえてくるのだ。
「……かぞ、を……りたかった……」
声は若い女性のものだった。まだ幼さを感じさせる女性の声がおぼろげながら聞こえた。
その声の方へ手を伸ばす。何故そうしたのかはわからない。ただ、彼女も同じなのだと感じた。
か細い女性の声は震えていた。
「ミーシャちゃん!」
伸ばした手が強く握られてそのまま引き寄せられる。
「ごめんね。遅くなった」
「キャ、ス……」
「まずいな。一旦飛ぶよっ」
体が宙を舞う感覚に包まれ、虫たちの慟哭が後方に去って行く。女性の声はもう聞こえなくなっていた。
重い瞼を開く。すぐそばにキャスウェルの顔があった。焦燥感に染まった翠色の瞳がミーシャを見つめている。
「大丈夫。僕がついているから」
その言葉を聞くとミーシャは意識を手放した。
◇◇◇
夢というのはいつだって残酷だ。目覚める瞬間まで幸せのひと時に浸らせておきながら、夢から覚めるとあるのは惨い現実だけだった。
しかし、幸せな夢を見ていられた夜はまだいい。問題は夢のなかでも惨い現実と変わらない事実を突きつけられたときだ。
そんなときは悪意に侵された気持ちになる。そして、その夢から覚めた瞬間に訪れる真実に人は打ちのめされる。
これが本心なのだと。
◇◇◇
「全く、面倒事に愛されているのか私は」
小脇に抱えた人物を放り出し、外套についた泥を払う。
せっかくオーダーメイドで作ってもらった外套なのに、この数週間でずいぶんと埃まみれになってしまった。手入れにも時間と金がかかるというのに。
「怒られるなあ……」
ここから遥か遠くの町で、この外套を制作してくれた人物の怒り顔が思い浮かぶ。
「あーあ。この請求は君にすればいいのかな」
アーリィは地面に伏せる人物を見おろしながら、その綺麗な灰色の髪をかきあげる。
「なあ、トーラス」
6章 了
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